戦争の勝ち負けはそれほど単純なものではない。戦争は国家が目的を掲げて行うものだ。だから戦争の目的が完遂されていなければ、「戦闘には勝ったけれども戦争に負けた」と呼べる状態がありうる。戦争に勝った結果、軍国主義化が進むこともあれば、戦争に負けたことで平和が長く続くなど「逆転の状態」があり得る。ノンフィクション作家・保坂正康さんが、新たな視点で見た戦争の勝ち負けとは。今回は「日露戦争」について。(朝日新書『歴史の定説を破る――あの戦争は「勝ち」だった』から一部抜粋)
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■アメリカに「敗戦」を救われた
日露戦争は明治37(1904)年に始まって翌38年、アメリカを間に入れて和睦という形で終結する。日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれ、ロシアが満州や朝鮮から撤兵し、遼東半島の租借権や東清鉄道(旅順│長春の南満州支線)を日本に譲渡し、樺太の南部を日本に割譲することになった。日本を勝者とする内容に西洋列強だけでなく、世界中が驚いた。それは日清戦争をはるかに凌ぐ衝撃だった。
とりわけ西洋列強の植民地になっている国々を目覚めさせた。「極東の小国があの軍事大国に勝った。アジアがほとんど西洋列強の植民地になっている中で、宗主国の一つを倒した。俺たちにもできるんじゃないか」と。つまり、日露戦争及びポーツマス条約は、西洋列強に対する独立運動や抵抗運動を強く後押しした。
日露戦争の歴史を見る時、多くの人たちはこうした点を強調して日本の勝利を称賛する。私も全く称賛しないわけではない。けれども、日本は本当にロシアに勝ったと言えるのか。たとえば、ポーツマス条約にしても日本は全く賠償金を取れなかった。先に述べたように、日本にとって戦争の最大の目的は賠償金の獲得だった。その目的を達成できなかった以上、むしろ敗北ではないのか。
さて、改めて終結のプロセスを点検してみよう。
戦争末期、日本は戦闘を優位に進めていたものの、国力をほとんど使い果たして青息吐息だった。ロシアも世相混沌として君主制が崩壊の動きを示していた。それを見ていたアメリカが日本側からの求めもあって間に入り、和睦を結んだほうがいいと停戦を勧め、講和条約を結ばせるように誘導していく。そこで日露の講和交渉が始まる。