



広島に投下された原爆で一台の米国製ピアノが被爆した。弾き手はロス生まれの河本明子さん(享年19)。蘇った音色はアルゲリッチら世界の演奏家を魅了し、今月、米国ピアニストによる初CDも発売された。
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河本明子さんは1926年5月25日、保険業を営む父・源吉さんの勤務地アメリカ・ロサンゼルス市の日本病院で生まれた。
<長イ間 楽シミニ待ッタダケノコトハアル。其子ガ聡明ナル様祈ル。由テ名ヲ明子ト命ズ>(< >内は源吉さんか明子さんの日記)
妻・シヅ子さんとの結婚から4年、待望の出産を祝ったのか、河本夫妻はピアノを購入。アメリカの大手老舗ボールドウィン社の新品アップライトだった。
明子さん6歳のときの英語力について、源吉さんは養育日記に記している。<(幼稚園の)先生の話によれば明子は7歳1か月の能力があったそうで。(中略)玉川学園分校にて教科書を見せて貰い、一年用の小学文庫を求めてきた。12冊ある>(32年6月8日)
そんな教育パパ源吉さんが明子さんの将来を考えて決断したのだろうか。河本一家はその年末にアメリカを出航し、シヅ子さんの親戚が暮らす広島に帰国、その後、市内西部の三滝に自宅を構えた。33年、明子さんは広島女学院小学校に入学した。
<学校でカタカナを一字やそこら習うだけでは物足りないから日記を書かせることにした。書き取りもさせるようにしたが字を知っているから少しも困らず、すらすらと書く>(33年4月30日)
こうしてノートに日記をつけはじめた明子さん。<今日から毎日(ピアノを)習うことになりました>(33年9月19日)とピアノの出稽古を受けていた。広島女学院に進学するとピアノの練習もままならなかったようだが、<音楽的な感性の持ち主だった。同窓会で聴いたピアニストについて、岡崎さんのピアノったら手がもう早々、しかも柔らかになめらかにとても素晴らしかった>(42年5月11日)
明子さんは成績優秀で43年、女学院専門学校に合格するが、女性の立場に悩んでいた。<父は勉強せよと言ってくださるが、どうも母が反対なので困る。こんなに食べ物に朝から晩まで時間を費やすのが女の仕事かと思へば、何をしに生まれてきたのかわからない>(44年4月9日)
戦況の悪化につれ、食糧難にも見舞われる。<体格検査が行われた。身長159.1センチ。体重51.5キロ。胸囲73センチ。身長は0.5センチ増していたが体重が1.5キロ、胸囲が3.5センチ減じているので気持ちが悪い>(同年5月3日)
やがて終戦まで1年あまりを残し明子さんの日記は終わる。原爆投下の候補地だった広島は原爆効果の威力を示すため空爆はあえて外されていたが、それでも日記に向かうような余裕がなかったことは想像に難くない。