今も会津に渦巻く、150年前の怨念。最大の要因は、官軍の「埋葬禁止」にあった。しかし、最近、「定説」を覆す新史料の発見があった。
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旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。藩校の学びを伝える博物館「会津藩校日新館」の館長、宗像精(むなかたただし)さん(85)は、こう切り出した。
「薩長憎しの理由は、西軍が家財道具を分捕ったり、若い娘を略奪したり、そういう悪行の数々があるからです」
元中学校教師で市教育長も務めた宗像さんによれば、戦前の小学6年の国定教科書には会津藩は薩長に「てむかった」と書かれていた。それはとりも直さず、会津藩は「朝敵」「賊軍」だと言っているようなもの。それを子どもたちが暗記させられたかと思うと、屈辱的な思いは消えない。宗像さんはいまだ「官軍」とは言わず「西軍」と言う。
「官軍といっちまうと、こっちは賊軍になっちまいます」
賊軍とは、政府軍の「官軍」に対する呼び方だ。
会津地方で「戦後」といえば太平洋戦争でなく、戊辰戦争(1868~69年)後のことを指す。賊軍の汚名を着せられ、戊辰戦争での敗戦によって会津藩士は苦難の道を歩むことになるからだ。政府は今年、「明治150年」を唱え、祝賀ムードを全国に演出しようとしている。しかし、会津若松市内には「維新」ではなく、「戊辰150周年」ののぼり旗が立つ。
「逆賊の汚名を着せられた薩長への恨みはいまだにあります」
市内で働く女性(40)は言う。同じ怨念を抱いている人たちが、本州「さいはての地」にもいる。
「薩長への恨みはいまだに消えません」
青森県大間町。この町の小さな商店街にある「斗南(となみ)藩資料館」の館長、木村重忠(しげただ)さん(78)は、静かな口調でこう話す。
館名が示す通り、斗南藩士の末裔だ。斗南藩は1869(明治2)年、戊辰戦争に敗れた会津藩士らが家名再興を許され、立ち上げた藩だ。最後の会津藩主・松平容保(かたもり)の長男で生後5カ月の容大(かたはる)を藩主に担いで起こした。71年までに、会津藩士とその家族1万7300人余が、下北半島に移住した。