直後、大谷はドラフト拒否の会見を開くことになったが、同年のドラフト会議では、北海道日本ハムファイターズが強行指名。国内球団を勧めていた両親や高校の監督らを説得し、批判を覚悟してドラフトを拒否した大谷が、翻意することはないだろうと思っていたが、結局は入団に至る。日本ハムは交渉にあたって、「夢へのみちしるべ」と題した冊子を作り、国内球団を経てアメリカに渡ることが、結果としてメジャーで長く活躍するという、大谷の夢への近道であると説いた。

 そして「二刀流挑戦」に誘(いざな)うことで、大谷の「パイオニアになりたい」という気持ちに応えようとしたのである。

 わずか5年という在籍期間ではあったが、投手としての最高速は165キロにまで伸び、打っては通算48本塁打を記録。17年シーズンは相次ぐケガに見舞われたが、ここまでの成長曲線と活躍ぶりは、名うてのシナリオライターとて描けまい。

 昨年末の本誌のインタビューでは、「誰もやったことのないことに挑戦し、それを達成することが楽しい」と大谷は告白した。先日の入団会見でも「僕はまだ完成した選手じゃない。ファンの皆さんとこれから作っていきたい」と、謙虚に話した。

「翔平」という名前は父・徹さんの「世界に羽ばたいていってほしい」という願いに、岩手県が誇る世界文化遺産・平泉の「平」を組み合わせて名付けられたものだ。

 岩手から北海道を経由して、大谷は海を渡る。アメリカでもほとんど前例のない二刀流に挑戦する大谷劇場はようやく幕が開けたばかりであり、「show time」はこれからだ。(ノンフィクションライター・柳川悠二)

AERA 2017年12月25日号