「玄関にも勝手口にもほとんど鍵をかけたことがなかった」というほどオープンだった吉村さん宅。いつも誰かがふらりと立ち寄って、茶飲み話をしていく。学生時代には、いつも誰かしら上がりこんで静子さんの手料理を食べて帰っていたという。
「夜中に仕事から帰ると、同級生や後輩が4、5人、僕の部屋で寝てる。お袋に聞くと『お前もいたと思った』って(笑)」
そんな親密な人間関係が、文字通りセーフティーネットとして機能していた。
「僕が地方にいるとき、母が倒れた!って近所の人が救急車を呼んでくれたり」
周囲の力を借りながら可能な限り母親の介護をした吉村さん。結局静子さんも満さんの死から約1年半後の昨年11月、帰らぬ人となった。
「立て続けにお袋まで見送ることになるとは……。僕は一人っ子だし、両親に死なれたら相当ショックだろうなと思ってたんですが、近所の人も友人たちも、僕を一人にしてくれない」
臨終に立ち会った際も、親戚、近所の人、病院スタッフが勢ぞろい。葬儀にも驚くほど多くの人たちが詰めかけた。
「和田アキ子さんも来てくださったんですよ。お袋、アッコさんのファンクラブに入ってたんです(笑)」
両親の死後、大変だったことは?と尋ねると「お袋の除籍手続きかな」。満さんの手続きは遺産相続も含め、静子さんが「プロに頼んだらしい」。だが静子さんのときは「そういうこと、わかってなかった」と、やってみた。
「亡くなった人の戸籍を全部さかのぼらなきゃいけないなんて知らなくて。本籍地回って書類そろえて、へとへとですよ。でも、介護も手続きも、できる限りのことができた。その意味では悔いはありません」
(ライター・浅野裕見子)
※AERA 2017年7月10日