稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年、愛知県生まれ。2016年1月まで朝日新聞記者。初の書き下ろし本『魂の退社 会社を辞めるということ。』(東洋経済新報社)が発売中
稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年、愛知県生まれ。2016年1月まで朝日新聞記者。初の書き下ろし本『魂の退社 会社を辞めるということ。』(東洋経済新報社)が発売中
この記事の写真をすべて見る

 元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。

*  *  *

 防音概念ゼロの老マンションで、子供3人を抱えた隣人の怒鳴り声に身を縮めるアフロ。とりあえず騒音をちゃんと聞くしかないじゃんと決意したものの、やはりそれだけでは何も変わらないのでした。いやもうちょっと何かできんのか。

 で、思いついたのが「にっこり挨拶運動」。結局はストレスがすべての元凶。それを減じるため隣人ができることなど、情けないがいくら考えてもやはりその程度なのです。でもやらんよりはマシかと。

 というわけで、廊下や自転車置き場で一家にお会いした時は、気合を入れて、一点の曇りもない笑顔で「こんにちは!」
「気をつけて行ってらっしゃい!」。すると先方も実に爽やかです。「ありがとうございまーす」「行ってきます!」。数分前に怒りまくっていた人と同一人物とはとても思えない。

 そう誰だっていい人なんだ。しかし……。

 やはり事態は1ミリも改善されないのでありました。無力感も相まって正直、いやもうどこかへ引っ越してくれないかなと……。そんなある日、駐車場ですれ違ったお父様が「実は僕たち引っ越すんです」とおっしゃるじゃありませんか。「うるさくしてすみませんでした」とも。

 え? そ、そうなんですか?

 いや私、全然うれしくなんかなかった。それどころか、えらく心配になってしまったのです。なぜ急に? もしや苦情が出た? 引っ越し先でちゃんとやっていけるのか? 一家はどうなっちゃうの?

 そして突然、静かな日々が訪れました。あの悩みに悩んだ頃が嘘のようです。

 そんなある日、偶然近所でお父様に遭遇。思わず駆け寄り「お元気ですか?」。そして次に出てきた言葉に自分でも驚いた。「いやもう、本当に寂しくなっちゃって」

 そうなんだ。赤の他人であろうが、気にかける誰かがいるということが実は遠くで自分を支えていたのです。

 人って変な生き物です。でも案外悪くない生き物なのかもしれません。

AERA 2017年6月26日号

▼▼▼AERA最新号はこちら▼▼▼