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「ジャズを撮ってみないか?」
 ……今からもう30年以上も前のこと。そんないかした誘いをかけてくれたのは中山 康樹。ぼくと同じ大阪出身のジャズ馬鹿で、マイルスのアルバム名をパクった「クッキン」という同人誌をワラ半紙に謄写版刷りで作っていたほどのマイルス・フリーク。

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 東京の写真学校に進学したぼくより、2~3年遅れてスイングジャーナル社に採用された彼が上京。大阪時代に共通の溜まり場となっていたジャズ喫茶で顔を合わせていたぼくが東京にいて、カメラマンを志していると言うことで、いかした「ジャズへのお誘い」となった訳だ。

 中山の誘いに乗ったぼくがジャズを撮り始めたのは1975年の秋。しかし、ちょうどその年1月の来日を最後に、マイルスはなんと6年間にわたる沈黙の世界に入っていたのだった。胃潰瘍・肺炎といった病気や声帯・足の関節の手術などのために入退院を繰り返しながら、自宅での療養を続け、聴衆の前での演奏活動を完全に休止していた時期にあたる。

 広告写真を志したぼくは、写真学校を卒業後、写真家 小川嘉範の個人アシスタントに就いた。小川先生は、秋山(庄太郎)スタジオ出身の藤井秀樹氏や一色一成氏と並ぶ直弟子のひとりで、ぼくはあの秋山庄太郎の孫弟子にあたると言うのがちょっと自慢でもあった。
 「ぼくは先生の孫なんですよ」と言うぼくに「あんまり脅かすんじゃないよ」とおっしゃった秋山先生……さては、思い当たるふしがあったのか。

 小川先生のスタジオ「BROOK」に、山本陽子や島田陽子、中田喜子など有名な大女優。当時売れっ子モデルだったエルザやシェリーがやって来るたびにぼくはワクワクしていた。

 丁稚奉公時代とはいえ、スーパーのバーゲンセール用の撮影を任されていたり、フィルムやプリントを現像する暗室作業にも自信があった。ロケのアシスタントとして同行するときの待遇も良く、スタジオの車も私用に乗り放題で、女の子とカメラを持たないロケにもたびたび使わせていただいた。お給金もそこそこ貰えていたから、先生の靴磨きやタバコ買いにもすすんで走り、特に不満はなかった。

 暗室の壁にこっそり開けた穴から女優やモデル達の衣装替えを覗くのも好きだったけれど、ジャズを撮る事の方に情熱の方向を変更しつつあったある時、先生から「ウチヤマ! やる気あんの?」と尋ねられ、ぼくは即座に「ありません!」と答えて、舞台写真の世界にまっしぐらに踏み込んで行く事になった。

 大物ミュージシャンのステージを撮ることは、ぼくにとって新しい大きな魅力となった。すでに世を去っていたサッチモやビリー・ホリデイ、コルトレーンやパーカーを撮るには、ぼくがこの世に生まれてくるのが遅かった。よって、中山康樹の「ジャズへの誘い」が遅すぎ、ジャズ・カメラマンとしてのぼくのスタートが遅すぎた。

 マイルスは事実上引退状態にあり、ジャズ・カメラマンを自称しても、あの「ジャズの帝王」をぼくのフィルムに定着させることが出来ないのだろうと諦めていた。

 ところが、健康上絶望視されていたマイルスのカムバックが1981年、ボストンのジャズ・クラブ「キックス」で実現し、早速日本公演が決定したのだった。

 6年もの沈黙を破って奇跡の復活を果たしたあの帝王が……

 あこがれのマイルス・デイヴィスが日本に来る。

 ……マイルスを撮りたい!……

 こうして帝王マイルス・デイヴィスを、カメラで撮らえるぼくの夢が遂に実現する事になった。

マイルス・デイヴィス:Miles Davis (allmusic.comへリンクします)
→トランペット/1926年5月26日 ~ 1991年9月28日