病気療養中も、ことあるごとに「がんで途中退場して申し訳ない。だが、いつも心は現場にある」と語っていたという(写真は2011年11月12日、福島第一原発で) (c)朝日新聞社 @@写禁
病気療養中も、ことあるごとに「がんで途中退場して申し訳ない。だが、いつも心は現場にある」と語っていたという(写真は2011年11月12日、福島第一原発で) (c)朝日新聞社 @@写禁
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「なんで俺の時にこんなこと起こらないかんねん」

 大地震と大津波に襲われた東京電力福島第一原発がすべての電源を失い、暴走の末に大量の放射性物質を噴き上げる最悪の事態が頭をよぎったとき、吉田昌郎(まさお)所長(当時)はそう思ったという(門田隆将著『死の淵を見た男』)。

 ときに東電本店に逆らって事故収束作業を指揮した豪傑にしては、やや愚痴っぽいせりふだ。ほかにも、

「とっさに何をしていいか思いつかなかった」(事故発生直後。政府の事故調査・検証委員会の報告書から)

 など、本人の回想からは“普通の人”であったこともうかがわせる。しかし、人類史上最悪レベルの原発事故が「彼の時」に起きたのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。

 吉田さんは、1979年に東電に入社。原子力部門が長く、福島第一原発勤務は4度目だった。現場主義の厳しい上司だったが、親分肌で部下に慕われた。現地で事故対応を続けてきた東電社員たちからは、「あの人だから団結できた」という声が上がる。収束作業に当たってきた協力会社の元作業員も言う。

「吉田さんはかなりのヘビースモーカーで、免震棟1階のタバコ部屋に来ては、気さくに作業員たちと話していた。そして『好きなだけ吸って』と、部屋に大量のタバコを置いていく。東電社員は信用ならないけど、吉田さんだけは信頼できた」

 事故発生翌日、原子炉への海水注入の停止を命じる東電本店にうわべでは従いながら、独自の判断で注水を続けたことは語り草だ。現在では、事態の悪化を抑えたと評価されている。

 各種報告書などから見える、責任逃れに汲々とする東電幹部たちの体質を思うと、「あの人が所長でよかった」という思いはいっそう強まる。

 とはいえ、吉田さんが、事故を防げなかった責任者の一人であったことも間違いない。原子力設備管理部長だった2008年には、最大15.7メートルの大津波が原発に押し寄せる可能性を検討しながら、具体的な対策は取らなかった。所長就任後も、今からすると不十分だった非常用発電機などの浸水対策を、放置したままにしていた。

 吉田さんの死去で、事故をめぐる現場責任者の証言を、新たに得ることもできなくなった。事故対応についてもっと語り、教訓を残してほしかったとの思いは強まる。

AERA 2013年7月22日号