中井:コメディーを演じる時に何が一番必要かと言うと、悲劇が必要なんです。「嘘八百」では、僕たちの中に何か足りないものが存在している。そこを補おうとする人間のチャーミングさみたいなものが見えた時にコメディーに見えてくるんだと思うんです。みんなが必死に生きることがコメディー。走っていってこけて笑わすというのは、コメディーではなくてギャグ。相互の関係の間に起きる笑いがコメディーであり喜劇だと思います。「嘘八百」という映画は、いろんなものが足りない現場を人間力で埋めていこうとする。映画作り自体がすでにコメディーなんです。
佐々木:僕がコメディーに関して思うのは、やっぱりパーフェクトな人って面白くないんです。足りないとか欠けている、という人が一生懸命やるから客観的に見るとおかしくてチャーミングで応援したくなる。今回の主役でもある「へうげもの(ひょうきんもの)」と呼ばれる織部の茶器の魅力は歪(ゆが)みや疵(きず)。それがあっても美しいんだよ、いいんだよ、っていうところは人間にも通じる。パーフェクトな人なんて誰もいませんから。
中井:今回は歪んでいる人しか出てないと思うしね(笑)。
佐々木:それがいいなと思います。今は完璧を求めすぎているのではないかと思うんです。人はもうちょっと寛容でないといけない。歪んだものも評価できないといけないだろうなと思いますね。
中井:前作が利休の茶器で今回は織部のはたかけ。僕は2作目でこの「歪み」を取り上げたことに、感じるものがありました。利休は派手というものを嫌い、地味な色使いだけれども真実の美しさを追求した。利休の弟子であり利休亡き後天下一の茶人となった織部は、そこからさらに、歪みや疵のある茶器にも芸術的価値を見いだしていく。でも、二人に共通するのは、基本をきちんと理解していることです。
広末:私もこの現場で小手先ではなく、力のある役者さんたちが一生懸命、まじめにやることがベースにないと、人を笑わせられないということを感じました。見ていてこれだけ楽しめるのは、貴一さんのセリフ量や蔵之介さんの技術的な部分の見せ方など、きちんとしたベースがあるからこそ、面白みや痛快感につながっていくのだと実感しました。