人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の本誌新連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は「八千草薫さんの死に思う」。
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人生最後のときめきは死である。何と不謹慎なと言われるかもしれないが、その人がもっともその人らしくあるのは棺を蓋(おお)う時だと私は信じている。
私もそうありたいし、そのような死を迎えた人を憧憬する。
八千草薫さんが亡くなった。さり気なく、その人らしく……。
「先立ってごめんね」と愛犬と愛猫への言葉があったという。お別れの会も特別にやらないという。その姿勢が美しい。それは孤独を知る人のみが知る美しさだ。仕事でインタビューした程度だが、存分にそのことは伝わってきた。
目の前に坐っていたその女(ひと)は、坐っているだけでこちらが吸い込まれていきそうな雰囲気を持っていた。女優さんの多くは、私が私がと自己主張ばかりが前に出てくる。特に最近は、過度に露出する演技が気になって仕方がない。その中でひっそりとした佇まいがかえって存在感を際立たせる。いやおうなく目が惹きつけられる。
引く演技というか、自分の中を見つめる演技が見る人を引き込んでいく。
ある画家と対談をした時に、品とは何かという話になった。彼は「引く」ということだと言った。ピカソの絵でも全面で自己主張しているようでいて、その中に引く姿勢があり品性を感じさせると言った。
八千草さんに感じるのも、そうした品の良さである。
それは若い時から変わらない。私は宝塚歌劇の娘役時代から、ずっと八千草さんを見続けてきた。
中学生の頃、私は大阪にいて、樟蔭中学という女子校に習っていた。その学校の制服はグリーンと紺のセーラー服で、中学こそ梅、桃、桜と幼稚園並みのクラス名だったが、高校に行くと月、雪、花と宝塚並みになる。さらに大学入学や卒業時の正装は、黒紋付にグリーンの袴、まるで宝塚であった。中学卒業後、宝塚音楽学校に入り、後にスターになった人もいる。