僕は先輩のOさんに電話をかけ続けた。繋がったのが深夜11時過ぎ。「貞夫さんにもう一度インタビューしたいんです」。藁(わら)にもすがる思いだった。番組『渡辺貞夫マイ・ディア・ライフ』を長年担当していたOさんは、「わかった、局で待っていろ」。

 小一時間して到着した彼の車に飛び乗ろうと僕は烈(はげ)しくドアの角に鼻をぶつけ、傷口から血がぽたぽた落ちた。「こんな遅くに大変申し訳ありません」。Oさんが貞夫さんに深く頭を下げた。間接照明の素敵な居間だった。あらかじめ伝えてくれたこともあったのだろう、貞夫さんは君たちこそお疲れ様と笑った。

 僕は止まらない血をハンカチで押さえながらマイクをセット、数時間後に無事放送することができた。

 それ以来、Oさんは僕を貞夫さんのライブに連れていくようになった。貞夫さんも僕の名前を覚えてくれた。残念ながらOさんは亡くなったが、貞夫さんは東日本大震災時には真っ先に生番組に駆けつけ、被災地リスナーに向けて生演奏を披露して下さった。

 貞夫さんはいつもエネルギーに満ち溢れた演奏だ。そして、その演奏にはいつも新しいストーリーがある。

 先日のコットンクラブのライブは「リズム、ハーモニー、インプロビゼーション。自分の文章の先生はジャズだ」と明かしてくれた村上春樹さんに誘っていただいた。開演前、貞夫さんが春樹さんの席で固い握手を交わしながら二言三言。横に僕を見つけると「お! 延江君も来てくれたのか?」と微笑み、柔らかな手を差し出してくれた。

週刊朝日  2019年11月8日号

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