苦手のスピードを無難にまとめ、続く得意のボルダリングで一気に巻き返す。それが、野口が五輪本番でも描く戦略だ。
「もう、本当に夢みたい」
と言いつつ、勝負どころで確実に力を発揮する実力者らしい試合ぶりだった。
クライミングを始めて、20年になる。
出会いは偶然だった。小学5年の夏、家族で行ったグアム島のゲームセンターで、大木を模した垂直のコースを登るアスレチックを体験。ロープをつけて約10メートルを登り切った感覚が、その後の人生を変えた。
「自分の力だけで高い所へ行ける感じが楽しかった」
茨城県内にある実家は当時、乳牛約400頭を飼育する酪農を営んでいた。遊び場は、3万坪を超える広大な牧場だ。
「庭の木は数え切れないくらい。でも、子どもの時に全部登りました」
自然の中で成長した少女にとって、木登りは当たり前の遊び。その延長線の上に、クライミングがあった。
練習拠点は、父・健司さん(55)が自宅にある牛舎を改装して作ったクライミング壁だった。
12歳で初出場した全日本ユース選手権で年長者をねじ伏せて優勝をさらい、「天才少女」と騒がれたこともある。
高校1年で初めて挑戦した世界選手権では、リードで銅メダル。他にも、ボルダリングのワールドカップ(W杯)では4度の年間優勝を飾り、歴代2位の通算21勝。ずっと、日本のクライミング界を引っ張ってきた。
ただ、決して順風満帆なクライマー人生ではなかった。登ることが怖くなったことがある。
15年8月、W杯最終戦の直前だった。練習中に壁のホールドに左足をひっかけて靱帯(じんたい)を痛めた。翌シーズンに、けがは癒えた。ただ、崩れた心と体のバランスは戻らず、思うようには登れなくなった。
「どうやって乗り越えていいのかが、全然わからなくて……」
何より苦しかったのは、目の前の挫折を乗り越える必要性を感じられなかったことだった。W杯の年間優勝や世界選手権の表彰台。目指すべき目標は、すでに達成済み。