東西連戦中の1961年、パリ郊外のルブルジェ空港で、ソ連からバレエの公演で来たダンサーの青年が亡命した。青年の名は、ルドルフ・ヌレエフ。後に伝説のバレエダンサーとして知られた人物だ。彼の半生を描いた映画『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』が注目を集めている。何を犠牲にしてでも、自身のバレエを極めることにこだわったヌレエフの生き様や人生観が描かれている。新国立劇場バレエ団の最高位「プリンシパル」の福岡雄大さんが、自身の半生を振り返りながら、映画について語った。
【写真】インタビューを受ける福岡さん/長身で鍛え抜かれた身体でポーズをとる福岡さん
1961年、ソ連のキーロフバレエ団が、公演で始めてヨーロッパに訪れた。彼らの行動は、ソ連の情報機関「国家保安委員会(KGB)」によってすべて国に報告されるなか、ダンサーの一人、ヌレエフは、フランスの自由な思想や空気に触れ、ソ連の国家体制に疑問を抱くようになる。
僕は、19歳のときに単身スイスへ渡りました。入団したチューリヒ・バレエには、欧米圏はもちろんロシアやウクライナ、アルメニアなど世界中からダンサーが集まっていました。
そんな彼らのなかには、「いまはバレエ団にいるから軍隊に入らずにすんでいるが、国に戻れば徴兵がまっている」と、話した友人ダンサーもいました。
映画の亡命シーンで、KGBはヌレエフを、「家族がどうなってもいいのか」と脅します。亡命すれば家族がひどい目に遭うかもしれない、とおびえながらも、ヌレエフは西側で生きる道を選ぶ。僕はそこまでの経験をしたことはないけれど、ヌレエフが、「自分は、ただ踊りたいだけだ」という思いを爆発させた気持ちはよくわかります。
1938年、ヌレエフは人と家畜がごった返すシベリア鉄道の車内で生まれる。タタール系の人々が済む自治共和国での貧しい暮らし。そんなヌレエフがバレエと出会ったのは6歳のとき。1枚のバレエのチケットを握りしめて、一家は首都ウファのオペラ座に向かう。きらびやかなオペラ座で上演されたバレエを見て、ヌレエフは舞踊家への道を決意する。