その言葉に賭けることにしたんです。音楽の道に進まずに、たとえばどこかの企業に就職していたとしたら、ずっと後悔の念を引きずっていたでしょうね。

 弟とも道が大きく違っちゃって、疎遠になったかもしれません。ずっと恨まれ続けたかもしれない。いや、「俺は最初からひとりでやったほうがよかったんだよ、そしたらもっと売れたのに」って言われるかな。

 何にせよ、この道を選んでよかったと思ってます。一度は解散したけど、また元に戻って、それからのほうがずっと長くなりました。

――意見の違いから76年にビリー・バンバンは解散。再結成のきっかけを作ってくれたのは、母親だった。

 全国のいろんな局でいくつも番組を持つようになり、ひょっとしたら、お金も歌だけのときより稼いでいたかもしれない。やりがいもありました。

 進の作曲した「琥珀色の日々」が使われたCMも、たいへん注目を集めていました。ただ、その後、離婚したこともあってお酒の量が増えたり、持病のぜんそくも悪化したりしていたようです。解散から8年ほどが経ちました。気にはなっていましたが、忙しかったし、きっかけがなくて時間が過ぎていきました。おふくろはそんな様子を見てヤキモキしていたんでしょうね。「進の様子を見てきてくれないか」と頼まれたんです。

 同じころに、知り合いから「あるイベントをやるんだけど、そこで一日だけのビリー・バンバンをやらないか」という話が持ちかけられました。

 弟を誘ったら、予想通り「嫌だよ」と言われましたが、勝手に話を進めて断れないようにしたんです。当日「白いブランコ」を歌ったら、ロクにリハーサルもしていないのに、自分たちでもびっくりするぐらい息がピッタリだった。それをきっかけに、またいっしょにやるようになったのです。

――菅原さんには、もうひとり兄がいる。2歳上の功さん。53歳で早世した。

 こういうことを言うのはテレ臭いんですけど、ビリー・バンバンは、おふくろとオヤジ、そして死んだ兄貴が作ってくれたんです。

 おふくろは歌が好きで、いつも鼻歌を歌っていた。女学生時代に合唱コンクールで入賞したこともあるそうです。ぼくたちの声が人にほめてもらえるのは、おふくろの声を受け継いだおかげです。

 オヤジは、浜口庫之助先生のところに連れていってくれた。いくら知り合いの紹介とはいえ、大胆ですよね。「連れていったら迷惑かも」なんて尻込みする人だったら、音楽を仕事にすることはありませんでした。

 そして、体が弱かった兄貴のおかげで、ぼくに負けん気が宿されたんです。学校時分、いじめられていた兄貴を、ぼくが助けに行くんです。相手は上級生ですけど、そんなの関係ありません。弟が「兄ちゃん、これ」って木の棒を渡してくれたこともありました。

 そんな負けん気のおかげで、歌を続けてこられましたし、病気をしてからのリハビリでもがんばることができています。

 かつて彦根に行ったときかな、コンサート会場はガラガラでした。そういう光景を見ると「もう歌手なんてやめようかな」と思ったりするんですけど、頭の上から兄貴の声が聞こえてきました。

「孝、がんばるんだぞ」

 おかげでふんばれたんです。兄貴もビリバンの一員ですね。

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