劇団「天井桟敷」に入団し、主宰者の寺山修司が作詞した「時には母のない子のように」を歌い、1969年に17歳で衝撃的なデビューを飾ったカルメン・マキさん。当時は作曲家の武満徹、詩人の谷川俊太郎、写真家の篠山紀信、画家(イラストレーター)の横尾忠則ら錚々たるメンバーに囲まれた。
「寺山さんのおかげというか、寺山さんの人望ですよね。今は偉くなっちゃった人達ばかりですけど、当時はまだ新人でした。」
今でも寺山修二の作品はライブで朗読する。
「天井桟敷出身なので朗読は得意。ジャズミュージシャンなどの即興演奏をバックに寺山さんのエッセイや詩を読んでいます。長いお話を語るっていう感じ。ほとんど寺山さんの作品ですね。あとは自分の詩とか友達の作品です」
マキさんにとって寺山修二はどのような存在だったのか。
「稀有な才能を持った方ですよね。最初は俳句とかから始まって、詩を書き、戯曲を書き物語を書き演出家になり、劇団を作って、競馬の評論家でもある。出会った当時、彼は30代ぐらいと思いますが、すごく大人に見えました。私が若かったせいかもしれませんけど…」
その後も寺山修二が詩を書いた「戦争は知らない」などフォークソングを歌った。
小さい頃から詩が好きだった。米国人の父親はマキさんが生後間もなく帰国。母子家庭で育ち、1人っ子だったので、おのずと自分と向き合う時間が多かった。読書したり、思いついたまま散文詩をノートに書いたりする少女だった。しかし、運動も大好きで中学時代は文芸部とバスケットボール部に入っていたという。
「私って二面性があるんですよね。歌も朗読などのアングラとロックというように静と動があります」
マキさんの大きな転機になったのは、1970年頃。ジャニス・ジャップリンらに感化され、ロック転向を突然、表明した。
「デビューがソニーだったので会社に通っていると嫌でも洋楽LPがあるので、サンプル盤をたくさんもらうんですね。ソニーにはピンクのワイシャツに水玉のネクタイとかしている有名なディレクターがいて、洋楽の知識が豊富。『マキ、これがいい』とくれたものの中にジャニス、ジミ・ヘンドリックス、フリートウッド・マック、マイクブルームフィールドがあり、うちに帰って聞いて影響されました」