それが縁で一緒に応援したけど、完封負け。「また夏待ってます!」って言って別れ、夏の大会を待ちました。初戦から応援して、あれよあれよで決勝戦。僕は日本文理の一塁側アルプスの一番上で見ていたんです。九回2死ランナーなしで、横のおっちゃんが「阪神電車混むなぁ……。このまま帰るわ」って帰ったんですよ! そのあと1番の切手孝太君がフルカウントからフォアボールを選ぶんです。「まだこれ逆転信じて後ろにつなぐって何という絆や! これはもしかしたら何かあるかもしれん」と思ったら、あんな感じ(日本文理が5点を奪う猛追。1点差で準優勝)に……。

 試合終了後、伊藤君のお父さんを見つけて、「ありがとうございました。最高の夏、僕も過ごさせてもらいました」って言ったら、お父さんが泣いて、「最高の思いさせてもらって、このチームとみんなに感謝しかない。新潟にも日本文理にも何の縁もゆかりもないのになんでここまで応援してくれんの!?」って。「売れてない、お金のない芸人だろうから飯も食えていないだろう。住所教えとけ!」と。後日、号外とタオルと新潟のおいしい米が届きました。

 100回記念大会に挑戦できる、それだけで”持ってる世代”だと思うんです。仲間と高校野球を楽しんで、「やりきったな、野球!」と完全燃焼してほしいですね。そんな球児たちを見ることができるだけで、僕は満足です。

■公式戦で1点取ったあの夏
スポーツキャスター 長島三奈

 初めて甲子園に触れたのは、「熱闘甲子園」(ABCテレビ系)のキャスターに就いた1998年の第80回大会でした。実はそれまで高校野球はまったく見たことがなかったんです。この大会は松坂大輔選手がいた横浜が優勝した年。スタッフからは「三奈ちゃん、本当にすごい年に来たね」って言われました。

「甲子園って毎年こんなにすごいんですか」なんて毎日驚いていたんですが、20年経って思い返すと、確かにあの夏は特別だったなぁと。

次のページ
グラウンドのプレー以外にもグッとくる瞬間