重要なのは、彼をかくまっていた元女性信者を自首させないと2人とも刑が重くなるということだった。平田は彼女の自首に同意して、私にだけ、彼女の電話番号と居場所を話してくれた。彼女は一旦、犯人蔵匿罪で指名手配されたんですが、そのあと、指名手配が解かれたんですよ。彼女はもう罪になることはないんじゃないかと誤解していてね。私が電話で「犯人蔵匿罪は、住まわせたりして逃亡を助けていれば継続しているから、まだ時効なんて完成してないよ」と教えてあげたら、彼女は「じゃあ自首します」と了解したから、私が大阪へ車で迎えに行って、その車に段ボール6箱を積んで、付き添って自首させたんです。
平田と彼女との利益対立を避けるために、私は10日間で平田の弁護人からは降りました。オウム元逃亡犯の菊地直子が逮捕されたとき(12年6月3日)は、親から弁護人になってくださいと依頼されて、面会に行った。菊地とは一度会っただけです。菊地本人が「親にいろんな迷惑をかけたくないから国選弁護人にしてください」と希望したので、私は辞退しました。
■「オウムに先手を打たれた」残党信者が今も増加する教団の実態 元警視庁捜査一課幹部
地下鉄サリン事件の裁判では、教祖、麻原元死刑囚と信者9人の死刑、信者4人の無期懲役が確定した。
未曽有のテロの“引き金”となったのは、迫り来る強制捜査だった。当時、サリンの製造責任者だった土谷正実死刑囚など教団幹部の取り調べを行った元警視庁捜査一課理事官の大峯泰廣氏がこう語る。
「サリン事件の1週間前の日曜日、捜査一課捜査員200人全員が陸上自衛隊朝霞駐屯地に集められ、ガスマスクの装着訓練を極秘で行いました。これは強制捜査に備えたサリン対策の訓練でしたが、オウム側へ情報が事前に漏れてしまい、先手を打たれてしまった」
公判記録などによると、麻原は1995年3月18日、故・村井秀夫幹部を呼び、社会をかく乱して強制捜査を防ぐために、「ポア」(殺人を意味するオウムの概念)を指示。大峯氏がサリン製造責任者だった土谷死刑囚らを取り調べた当時をこう振り返る。