戦前の日本で外国人の血が入った子どもを育てるのは、たいへんだったと思う。私も弟も、クラスメートから「おまえんち、スパイだろ」ってさんざんいじめられました。配給の知らせがウチにだけ回ってこないなんてことも、よくあった。

 母はピアノをお金持ちの家の子弟に教えて、私たちを養ってくれました。私にピアノをやらせたのも、ピアノを身につけたら何があっても食べていけると思ったからでしょうね。

――東京藝術大学を卒業後、ドイツに留学。ベルリン音楽学校を経て、ヨーロッパで演奏家としてのキャリアをスタートさせた。向こうで成功をつかむチャンスもあったという。

 30代半ばのころでした。ウィーンに、世界的な指揮者であるレナード・バーンスタインが来ると聞いて、私は勇気を出して手紙を渡したんです。私の演奏を聴いてくださいって。

 その願いは運よく聞き入れてもらえて、私は彼が作曲した「ウエスト・サイド・ストーリー」など何曲かを演奏しました。演奏が終わると彼は私を抱きしめ「君は素晴らしい。私が力を貸そう」と言って、ウィーンでリサイタルを開いてくれることになったんです。街中のいちばん大きな柱に、私のリサイタルのポスターが貼られて、夢のようでした。やっとチャンスをつかんだんだって。

 ところが、リサイタルの直前、暖房もない古いアパートに住んでいた私は、ひどい風邪をひいてしまったのです。さらに、飲んだ薬が合わなくて左耳が聞こえなくなってしまった。右耳は16歳のときに中耳炎をこじらせて、すでに聞こえなくなっていましたから、両耳が聞こえなくなったのです。

 そんな状態でしたから、結果は納得のいくものではありませんでした。ピアニストとしての未来は、完全に失われてしまったと思いました。ウィーンを去り、スウェーデンのストックホルムで、耳の治療をしながら音楽学校の教師の資格を得るために、学校に入りました。それから何十年も、ピアノを教えて、といっしょにヨーロッパのあちこちを移り住みました。

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