もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回はピアニストのフジコ・ヘミングさんです。
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母が亡くなって、残してくれた家を守るために、飼っていた8匹の猫を連れて1995年にヨーロッパから日本に帰ってきました。でも、本当は帰りたくなかった。ヨーロッパで成功して「錦を飾る」予定だったんだもの。
母は、大嫌いだけど大好きな人。母のおかげでピアノに出会えたし、ドイツに留学中も、苦しい生活の中から仕送りを続けてくれました。母から届いた手紙に「私は塩を舐めてでもあなたに勉強を続けさせる」と書いてあって、眠れなくなるほど申し訳なかった。
母のためにも成功したいと思ってがんばっていたけど、生きているうちにそれが果たせなかったのは、とても心残りね。申し訳なくて、死に顔を見られなかったわ。
――フジコは母親から手ほどきをうけて、幼少期からピアノを始めた。母親の大月投網子は東京音楽学校(現・東京藝術大学)でピアノを学び、戦前のベルリンに留学。そこでスウェーデン人の夫と出会い、フジコと弟のウルフをもうけた。
私が5歳のころ、家族で日本に来て、母は私にピアノを始めさせました。気性が激しい人で、ピアノの教え方も他の部分でも、とにかく厳しかった。ほめられたことはなく、それどころか一日中、私のことを「このアホ」「なんでこんなこともできないんだ」って言い続けている。
今思えば、子どもの教育という点では、母は正しくはなかった。毎日責められて何をやっても否定され続けるのはつらかったわね。
父がいてくれたら「そんなこと言うもんじゃないよ」と止めてくれたかもしれない。父は穏やかな人だったから。でも、いろいろあって母と幼い私たちを残して、スウェーデンに帰ってしまったんです。母は、そんな父を決して許そうとはしなかった。たまに電話がかかってきても、激しい口調で怒鳴りつけてました。