大センセイはいわゆるコロス(群衆)のひとりとして舞台に出ていたのだが、たとえば最も有名なオペラのひとつ『カルメン』では、タバコ工場の女工さんであるカルメンをナンパするため、工場の門にたむろする若者のひとりに扮する必要があった。女子を口説くために集まってきたお兄ちゃんが白髪まじりのハゲでは、いくら市民オペラとはいえ、演出上ちとマズかろう。さて、どうしたものか……。
同じオペラ団体に、大センセイより少し年長でやはりハゲのナカジマさんという人がいた。元は真面目なサラリーマンで、年金生活に入ったのを機に好きなオペラを始めたらしい。
本番前の楽屋で、ナカジマさんが話しかけてきた。
「ヤマダ君、ちょっといいかな? 役作りのために、私、こんなものを買ってきたんだけどね」
なにしろ男声は人数が足りないから、われわれは様々な役をこなさねばならなかった。兵士、山賊、闘牛の観客……。役はいろいろでも、白髪ハゲのままでOKな役はひとつもない。