優しかった、面白かった、頼もしかった……、人それぞれ、父親に対する思いを抱えている。どれも自分をつくってくれた大切な思い、でも、面と向かって直接伝えるのは難しい。週刊朝日では、「父の日」を前に、8人の方に今だから話せる亡き父への思いを語ってもらった。その中から、三浦雄一郎さんが語った父・三浦敬三さんのエピソードを紹介する。
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80歳で史上最高齢のエベレスト登頂を達成できた私ですが、子どものころは体が弱かったんです。仙台に住んでいた小学校4年生の頃だったと思いますが、入院していてまる1学期間登校できなかったこともありました。農林省に勤めていた父の転勤で転校を繰り返していたこともあり、勉強もついていくのがやっと、青森生まれのためなまりも強くて、コンプレックスだらけの少年でした。
そんなあるとき、父が「退院できたら蔵王に行こう」と言ってくれたんです。普通は、退院したら安静にしておきなさい、と言いますよね。でも、その言葉を聞いて、私は飛び上がるほどうれしかった。
山岳スキーヤーで写真家でもあり、後進の教育にもかかわっていた父は約束通り、蔵王で行われた東北大学山岳部の合宿に連れて行ってくれました。山形側から山を越え、父の背中を追いながら、休みつつも約20キロを歩き、蔵王のドッコ沼の山の家に到着するころには真夜中でした。先に到着していた大学生たちは、小学生がこんな時間に山登りをして現れたことに驚くと共に歓迎してくれました。吹雪の山越えは、言うまでもなく学校より厳しい、命がけの世界。それでも達成できたことがプライドになった。父から「強い心を持て」などと言われたことはありませんが、いつもその後ろ姿を見てきました。
父は晩年、99歳でモンブラン大滑降を達成しました。準備のためのスキーやトレーニングで90歳から99歳のあいだに3回も骨折をしたんですよ。それも治して、滑降を達成したんです。
当日の夜、父は風呂上がりにふと、「これができたら死んでもいいと思っていたんだ」とつぶやきました。滑降のときには、命がけという悲壮感などまったく見せなかったけれど、並々ならぬ覚悟で臨んでいたのでしょう。何歳になっても夢、目標を諦めない姿がそこにありました。
2006年の正月、次男の豪太(モーグルスキー選手)とカナダ・ウィスラーでスキーの撮影に行ったんです。まもなく山頂というところで国際電話が鳴り、父の訃報を聞きました。帰国しようと、急いで滑り下りる最中、立ち込めた霧の中で並んで滑る気配があった。「父だ」と確信しましたね。きっと、天国のスキー場でも性懲りなく、いろんなチャレンジをしているのでしょう。
父の毅然とした生き方、世界のスキーヤーが誰もできなかった偉業を次々達成したチャレンジ精神、そして夢や目標の実現のために絶え間なく努力していた姿を、誇りに思います。それは私だけでなく、私の3人の子どもたちにも脈々と受け継がれている。父親でありながら、偉大な師匠。それが、私にとっての父でした。(取材・文/直木詩帆)
※週刊朝日 2018年6月22日号に掲載した記事に加筆