#MeTooの盛り上がりの中、テレビなどでも「セクハラは被害者がセクハラと思えばセクハラ」という言葉が普通に流れるようになった。そもそもこの言葉は、セクハラに無知だった昔の男の人に、“あなたにとってはジョークだったとしても、それは受け手にとって暴力になるのよ”と、教えてあげる言葉だったはずだ。それが元狛江市長の発言だと微妙にずれる。元狛江市長は、“お尻を触った認識はないが、女性がセクハラと言えばセクハラになるのだから仕方ない”と、ずいぶんと被害者気取りだ。だけどこれって、「福田に人権はないのか!」と吠えた麻生大臣にも通じる感性だろう。そして「痴漢えん罪」に怯える男性たちにも通じる感性だろう。性暴力に真摯に向き合わず、ただただ俺たちは女によって人生を棒に振る可能性があると怯え被害者ぶる。そんな男性たちにとって、職場に女性が増えることはリスクでしかないだろう。決定の場に女性が増えるのは恐怖でしかないだろう。この国のジェンダーギャップが世界最低レベルなのは、そんな男性の保身が功を奏しているからなのかもしれない。
ああ、いつになったら日本は変わる? 「狛江の元市長、最低!」と叫びたくなる私に、それでも93歳の女性は力強く微笑むのだった。「時代はよくなっているのよ」と。ぐっとこらえる。そう、女の戦いは地道。一気には変えられない。でも、私たちは変えてきた。元狛江市長の意識は変えられなかったけど(←これはもう自己責任)、彼を許さない程度に社会は変わったのだ。それは、墓の中でほっと安心している女性たちが戦い、手に入れたもの。そんなふうに、女性たちは、声をあげ続けなければいけないのだと思った。後を生きる女性たちのためにも。
週刊朝日 2018年6月15日号