SNSで「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれるノンフィクション作家・山田清機の『週刊朝日』連載、『大センセイの大魂嘆(だいこんたん)!』。今回のテーマは「ほっこり」。

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 最近、気になる言葉遣いがやたらと増えてきて、これは間違いなく老化現象のひとつだと思うのだが、どうにもこうにも許せないものを三つだけ挙げてみたい。

 トップバッターは、「背中を押された」である。

「私、◯◯さんのひと言に背中を押されて、ヨガに通うようになったの」

 なんて中年のおばはんが言ってるのを聞くと、

「アンタ、誰かに背中を押してもらわないとヨガ教室のドアひとつ潜れんのか」

 と突っ込みたくなる。

 本当は自分の意思でやったことなのに、半分ぐらい人のせいにしている。ホームで背中を押されたら、危ないよ!

「勇気をもらった」というのも、近頃、嫌悪感急上昇中のフレーズだ。

 いわゆるアスリートとかアーティストとか呼ばれる人たちが、

 
「僕の×××で被災地の人々に勇気を与えたい」

 とか言っているのを聞くと、その傲岸不遜ぶりに眩暈がしてしまうが、「勇気をもらった」はこれに呼応するフレーズだとも言える。

 古来勇気とは、自分で出したり、自分の内側から湧いたりするものであり、決して、キャッチボールのように与えたりもらったりするものではなかった。いったいいつから、勇気は贈答品に成り下がってしまったのだろうか。

 そして、大センセイ、ここにも「背中を押された」と共通する、ある気分を嗅ぎ取るのである。現代人は、勇気ですら人からもらったものだと言い張って、半分ぐらい人のせいにしているのである。

 諸君、勇気ぐらい、自分で出したことにしないか。

 さて、「背中を押された」「勇気をもらった」という、受動表現への嫌悪感を表明した後で、さて、これはいったい何に対する嫌悪感なんだか自分でもよくわからないのだが、いま、大センセイの嫌いな言葉番付の横綱は、なんといっても、

「ほっこり」

 なのである。

 
「今日、下町を散策していて偶然みつけた、小さな小さな和菓子屋さん。和三盆を使った優しい甘さに出会って、心がとってもほっこりしました」

 などというSNSの投稿をうっかり読んでしまったりすると、思わず、

「ほっこりすんな!」

 と叫びたくなる。

 以前、京野菜を作っている農家の人が、黒々とした畑の土を鍬でぽくぽく掘り返しながら、

「ほっこりした土でっしゃろ~」

 と言うのを聞いて、なるほどこういうシチュエーションで使われるなら違和感がないと感心したものだが、調べてみると、そもそもほっこりは「疲れた」という意味らしい。つまり、

「今日はえらい、ほっこりしたワ~」

 と言えば、「今日はすごく疲れたなぁ」という意味だというのである。

 
 そのほっこりがなぜ、「心がほっこりした」などという、欺瞞的、自己韜晦的な気味の悪い使われ方をするようになってしまったのか。そして、専ら京都を中心に活動していたほっこりの、関東進出の狙いは、いったいどこにあるのか?

 ともあれ、大センセイの独善的な分析によれば、ほっこりを多用する人には、大金持ちではないが小金は持っていそうな人が多い。お金のなさそうな人がほっこりを使うのを、聞いた覚えがないのである。

 言うまでもないことだが、貧乏暇なしの売文業者に、ほこほこほっこりしている時間などない。

 あー、ほっこりしたい!

週刊朝日 2018年4月27日号