ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、「アスリート」を取り上げる。

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 先日、とある番組で『ジーンズ→デニム』『ホットケーキ→パンケーキ』のような、時代によって変化するカタカナ言葉の話になりました。今さらスイーツだろうとタブレットだろうとLGBTだろうと何でも構わないのですが、いつからか『スポーツ選手』を『アスリート』と呼ぶようになった風潮に関してだけは、一度ちゃんと向き合っておかなくてはと思い、考えてみました。

 私の中にある『アスリート原風景』は、『筋肉番付』や『SASUKE』といった番組の中、日々是己の限界と闘い続けていた筋肉信者たちの姿です。「あらゆる欲を捨て、追い込み抜いた肉体のみを信じ、さらなる高みを目指すため、跳び箱を一段増やす!」みたいな。「イイ大人がどうして?」なんて戯言は言いっこなしの愚直過ぎる世界。『アスリート』という響きには、競技の上手下手よりも、勝負の世界や自らの肉体に対する精神性に重きを置いた、極めて個人的な流儀、資質、もしくは世間の願望のようなものが多分に含まれている気がします。

 一方で、『精神性』と言いながらも、その肉体はスポーツ科学や統計学といった理論的な裏付けによって構築されていないと、アスリートとしては意味を成しません。フィジカルなのにロジカル。ただ大きい、ただ力持ち、ただひたすら根性では通用しないのが、現在の『アスリート型スポーツ界』なのだとすれば、(偏見甚だしいことは承知の上で敢えて書きますが)『アスリートとは知的でなくてはならない』。スポーツ選手との最たる違いはこれではないでしょうか。

『筋肉がやたら研ぎ澄まされている』のもアスリートの特徴です。筋肉は『摂生』と『孤高』の証しであり、その質とバランスは『洗練』や『知性』すら醸し出してくれます。市川海老蔵にどことなくアスリート感があるのは、間違いなく『筋肉』の押し出しの強さ故ですし、イチローの登場と存在によって、それまでセカンドバッグ率9割だったプロ野球界は、極めてアスリート的に洗練されたと言えます。

 
 さらに、アスリートに不可欠なのが『苦難の物語』。次々と襲いかかる故障や不調や不運、そしてそれらを乗り越える忍耐、努力、絆、肉体改造といったパッセージの末にある感動込みで『アスリート』は成立し、そこで『個人の流儀』と『他人の願望』という需要と供給が生まれるわけです。順風満帆で『金の匂い』しかしないアスリートでは、世間が満足してくれません。『スポーツ選手の妻』よりも『アスリートの妻』の方が、どことなく苦労していそうな雰囲気ですし、奥に壮大なストーリーを感じることができます。

 さて。『ストイック』『理論』『知性』『筋肉』『物語』、これらの要素を兼ね揃えた真のアスリートとは誰なのか。私の中で導き出された答えは、『室伏広治』でした。気持ち良いほどにドンピシャです。しかも私が初めて彼を知ったのは、奇しくもあの『筋肉番付』の前身番組。当時まだ10代だった彼は、新日プロレスラーのような長い襟足をした、チャラダサ筋肉ハーフ青年だったのを覚えています。つまり、日本におけるアスリート概念の歴史とは、室伏広治の洗練の歴史であり、その歴史を紡いだ『筋肉番付』と『世界陸上』の両番組。そしてそれらを放送してきたTBS。ってことは要するに織田裕二の功績?

週刊朝日 2017年3月17日号