<ベトコンは木のこずえによじのぼって機関砲を持って待ちかまえていて、ヘリコプターが撃ちながら近づいてくると、こずえから機関砲を撃つ。それが広大な桜色の熱帯のたそがれのなかで、すさまじく美しいんです。とにかく美しい。激烈に美しいんですよ>

 売れっ子作家が銃弾の雨を浴びるという非常事態。当時の担当編集者だった永山義高がこう振り返る。

「開高さんには出発する時から『死ぬかもしれない』という覚悟があったと思います。羽田空港で見送った後、奥さんから『夫が死んだらどうしてくれるの』と問い詰められました。ベトコンに襲われた記事は、命からがらホテルにたどりついて泥のように眠った後、国際電話で編集長に一気に1時間近く語ったもの。ベトナムでの強烈な体験の後、開高さんはそれまでより自己の内面に迫るような作品に目覚めていきました」

 戦火を遠くにしながら、日本は高度成長を迎え、64年には東京五輪に沸いた。誌面にも生活感あふれるテーマが増える。

 東京五輪の開催直前、64年10月16日号に掲載された「新幹線とジェット機乗りくらべ 営業開始第1日の私の採点簿 阿川弘之」は、阿川佐和子の父で作家の弘之が同年10月1日、営業初日の“夢の超特急”東海道新幹線に乗って東京から大阪へ行き、ジェット機で東京に帰ってきた記録。

<十二両編成、青と象牙色の二色に塗り分けられた超特急は、新しく、まことに美しい>と素直に感動してみせるが、当時はまだ未知の乗り物。世間には「安全性に不安」という見方もあったらしく、こうも書く。

<時速二〇〇キロになると、やはり、何かもう、巨大なものがおさえようもなく突っ走っている感じで、これで万一のことがあったらという不安が、ふと頭をかすめる><飛行機はもう、一応信用しているけれども、新幹線の方は、しばらく乗らずに眺めていようという人が、かなり多いのではあるまいか>

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