昭和の皇室、その生き証人であった三笠宮崇仁親王が逝去した。昨年12月に100歳の誕生日を迎え、明治以降の皇族では最高齢の宮様だった。中国・南京へ赴いた皇族将校は、戦時中にもかかわらず「聖戦」へ疑問を投げかけた。一方で、頭脳明敏ながら穏やかな人柄は、多くの人々に親しまれた。
〈「死」以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八條の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」といふ精神に反しはしないか?〉
終戦翌年の1946年、吉田茂内閣は、皇室典範は旧典範を踏襲し、天皇の生前退位を規定しないという方針を打ち出した。それに異を唱える形で三笠宮崇仁親王は、「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」と題する意見書を作り、天皇の地位について、「必要最小限の基本的人権としての譲位を考えた方がよいと思っている」と疑問を投げかけた。だが、政府が方針を変えることはなかった。
70年の歳月を経た2016年10月27日。三笠宮さまが100歳の生涯を閉じた。この日の夕方、天皇陛下と美智子さまは、東京・元赤坂の赤坂御用地にある三笠宮邸で、ご遺体と対面された。
奇しくもこの日、天皇陛下の生前退位に関する2回目の有識者会議の会合が開かれた。陛下は、どのような言葉で、三笠宮さまに語りかけたのだろうか。
三笠宮さまは、1915(大正4)年12月2日、大正天皇と貞明皇后の第4皇子として生まれた。幼少の称号は澄宮(すみのみや)。時代が昭和に移ると、兄が天皇に即位し、大元帥となった。日本が戦争に突き進む中、10代を過ごした。
成績は学年トップ。三笠宮さまは、ノンフィクション作家の工藤美代子さんに、当時をこう振り返った。
「あるとき、成績を心配した大宮さま(貞明皇后)が、おつきの方にいろいろと尋ねたものの、心配ないとわかり、安心したそうです」
満州事変の翌32年、学習院中等科4年を修了し、陸軍士官学校へ。35年には独立して三笠宮家を創立し、38年に千葉県の習志野騎兵第15連隊の中隊長となる。満州事変の勝利に酔う日本に不穏な空気を感じとっていた、と著書『古代オリエント史と私』(84年刊)で振り返っている。
〈私もこの記事を信じましたが、やがて(中略)日本陸軍の謀略であることがわかってきました〉