43年に支那派遣軍総司令部の参謀として中国の南京へ赴任。お印の若杉にちなみ、「若杉参謀」のコードネームで呼ばれた。同著では、南京赴任中に「聖戦」の陰に存在した日本軍の残虐行為を知ったと述懐している。陸士時代の同期生から「兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる」と聞かされショックを受け、トラックに乗せた中国人捕虜を満州の広野に連行し、毒ガスの実験をする映画を見せられた、といった内容がつづられた。
同著には、中国政府が日本軍の残虐行為をテーマにした宣伝映画「勝利行進曲」を日本に持ち帰り、「大元帥陛下にお見せしました」との話や、未遂に終わった東条英機暗殺計画に遭遇したといった記述もあるが、詳細は語られることのないままとなった。
47年から、東京大学文学部の研究生として西洋史や宗教史を学ぶ。中国の戦場でその地に踏みとどまるキリスト教の宣教師や厳しい軍紀の中で戦う八路軍の姿から、「人間の情熱をかき立てる根本的な要因を探求したかった」という。
その後、オリエント学者としての道を歩む。のちに三笠宮さまが研究室を置いた中近東文化センター理事の師子角晋也さんは、こう話す。
「ヘブライ語の旧約聖書まる一冊の翻訳に取り組まれました。原書で読まなければ本当の意味を理解できない、とおっしゃっていた。数年前まで聖書の一節をヘブライ語で諳(そら)んじる姿をよくお見かけしました」
若いころは、テレビやラジオ番組にレギュラー出演した一方、終戦直後から「皇室の民主化」を強く意識していた。
研究生時代からの友人である色川大吉・東京経済大名誉教授(91)は、こんな言葉が印象に残っている。
「これまでは籠の鳥で特別扱いされて育った。これからは国民目線で勉強しなおさないといけない」
占領軍の支配下にあった日本で、皇室・皇族が存続するかどうかのデリケートな情勢下で、民主的な考えをもった皇族として国民との距離、絆をつなごうとさまざまに考え、行動したのだろう、と感じている。
こんなこともあった。
48年、全日本学生自治会総連合(全学連)が結成され、東大でも授業料値上げに反対する学生らが授業をボイコットしてストを起こした。色川さんは全学連の委員を務めた。教室に300人ほど集まった学生の中に、「三笠さん」の姿を見つけ、大声で呼びかけた。
「三笠さん、あなたの意見はどうですか」
三笠宮さまは、躊躇(ちゅうちょ)することなく答えた。
「私は賛成です」
一方でウィットに富んだ会話を愛する人物だった。色川さんの結婚式で、こんなスピーチを贈った。