「研究は色川さんが先輩ですが、結婚生活においては私が先輩です。家内を操縦するのは難しく、歴史の研究のようにはいきません」
三笠宮さまの生涯を振り返るとき、記憶に残るのは、「紀元節」への反対だ。2月11日が「神武天皇即位の日」として戦前の「紀元節」を祝日として復活させる動きに対し、「歴史的根拠がない」と批判。反発した右翼が三笠宮邸に押しかけ、旅行先のホテルでビラをまくなどの騒ぎに発展したが、三笠宮さまは、周囲に「神話と歴史は違う」と話し、撤回することはなかった。
「歴史学者としての矜持(きょうじ)だったのでしょう」(知人)
色川さんら仲間内では絶えず議論をした。「日本でしか通用しない元号は廃止したほうがいい」「国民が望むのならば、日本は共和制になるのもいい」といった三笠宮さまの発言もあったという。
前出の工藤さんは、晩年の姿をこう振り返る。
「お若いころは、ご家庭でも御所言葉を決してお使いにならなかったそうです。しかし、10年ほど前にお会いしたときは、むしろ『皇室の伝統や文化を残したい。御所言葉をわかるのも、家内だけなのです』と仰っていました。紀元節のことも改めてうかがいましたが、『極端な考えはいけないという意味だったのです』とお答えになった。歳月を重ねる中で、お考えも変化されたのだなと感じました」
妻の百合子さまとの間には3男2女が生まれ、多くの孫も誕生した。だが、02年に高円宮憲仁さま、12年に寛仁さま、14年には桂宮宜仁さまが亡くなり、3人の息子に先立たれた。
「そうした状況でも、周囲に気を使い、ユーモアを忘れない方でした。昨年10月に100歳のお祝いを兼ね、ご夫妻と彬子さま、センターの関係者で小さなお祝いの席を設けました。彬子さまと一緒に、ケーキのろうそくの火を消したとき、それはうれしそうな表情でしたよ」(師子角さん)
三笠宮さまが最期を迎えるとき、病室には百合子さまが付き添っていた。
学者として事実を重んじ、皇室の民主化の意味を考え、国民との懸け橋を模索した三笠宮さま。その姿勢は、いまの両陛下にも受け継がれているのだろう。
※週刊朝日 2016年11月11日号