「企画を考える“タネ探し”も、仕事だと思っていませんでした。仕事で地方や海外に行くことはあっても、プライベートで旅行したこともなかったくらい。それに、分け隔てなく人付き合いをする人で、よく通っていた画廊やデパートで仲良くなると、すぐ『遊びにいらっしゃい』と自宅や会社に人を連れてきていました。近所に住む奥さんにもすぐ声をかけてしまい、驚かれることもありました(笑)。特に若い女性と話すと刺激を受けるそうで、いくつになっても人と会うことが好きでした」(隆さん)
昭和30年代、当時は珍しい“ホーローのお風呂”を、特注で自宅に作り、自慢だったという。
「大したものではないのですが、鎭子さんは嬉しくて皆に見せたくて『うちのお風呂に入りに来て』と知り合った人を、よく誘っていました。ブランド品やお金に魅かれるのではなく、お風呂や服装に、鎭子さんならではのこだわりがありました」(同)
面倒見のよさを物語るこんなエピソードも。
「医者の知り合いも多かったので、社員やその親族だけでなく、執筆者や料理人など知り合った人が少しでも具合が悪いというと、医者を紹介していました。電話で紹介するだけでなく、病院まで同行したり、手術の日の立ち会いまで付き添ったこともありました。誰にでも親身になっていました」(泰子さん)
「暮しの手帖」は、読者に寄り添う誌面を作ろうと、プロのモデルや女優はほとんど登場せず、編集部員たちがモデルを務めていた。
「鎭子さんは80歳を超えても手のモデル『手優』をしていました。裁縫や料理の際に掲載された手は、鎭子さんの手。もともとスラッとした奇麗な手でしたが、けがや日焼けをしないように真夏でも手袋をつけていました」(同)
社内で「鎭子さん」「花森さん」と呼ばれ、名コンビといわれた2人。