
本誌連載中の「司馬遼太郎の言葉」は、司馬さんの作品の世界を記者が歩くシリーズ。今回の作品は「三浦半島記」です。鎌倉武士の根拠地であり、明治の海軍の策源地でもあった三浦半島。「戦後50年」の年、司馬さんは何を考えていただろうか。本誌記者の村井重俊が当時の思い出を綴る。
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司馬さんが「街道をゆく 三浦半島記」を取材したのは1995(平成7)年だった。
<横浜の磯子(いそご)にいる。三浦半島の東の根にちかい。(略)丘上のホテルから、毎日勤め人のように半島に通(かよ)っている>
当時はあった“丘上のホテル”に泊まり、三浦半島の横須賀、鎌倉を中心に、1月、2月、4月と取材を続けることになる。
磯子に入ったのは1月2日。
司馬夫妻とは新幹線の新横浜駅で待ち合わせることになっていた。ところが、私(村井)が東京から迎えの車で新横浜に向かったところ、大渋滞に巻き込まれてしまった。
「川崎大師の初詣渋滞ですね。これは間に合いませんねえ」
運転手さんはのんびりいう。
「マズイ」
と思った。待ち合わせ場所は新横浜駅のホームなのである。東大阪の自宅で打ち合わせしたとき、
「悪いなあ。ホームまで迎えに来てもらうなんて」
という司馬さんに、
「そんな、当たり前ですよ」
といったことがアダになった。
約束の待ち合わせは午後6時。真冬の、吹き抜けのホームの風はさらに冷たくなっているだろう。
まだ携帯電話もない時代である。