戦後70年間、いつも日本人の暮らしのそばにあったのが鉄道だ。なかでも昭和39(1964)年の東京五輪と同時期に開業した東海道新幹線は、高度経済成長の象徴。そんな鉄道戦後史の大きな節目に立ち会ってきたのが、JR東海初代社長(現・相談役)の須田寬さん(84)。鉄道と新幹線にまつわる秘話を須田さんに聞いた。
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根本的に新しい特急となる新幹線の実現を推し進めたのが十河信二(そごうしんじ)さんという日本国有鉄道(国鉄)総裁でした。十河さんは私の入社した翌年、30(55)年に総裁になっています。
その年、国鉄が宇野(岡山)と高松をつないで運航していた連絡船同士が霧の中で衝突して沈む事故(紫雲丸事故)が起きました。痛ましいことに修学旅行中の児童も相当亡くなり、国鉄の責任だと囂々(ごうごう)たる批判の嵐が吹き荒れたんです。
私が入社した頃は、国鉄の制服を着て道を歩くことは何とも思いませんでした。でも、そうなれば制服を着て歩けるどころの騒ぎではなく、非常に肩身が狭かったんです。それで引責辞任せざるを得なかった総裁の後に着任したのが十河さんでした。事故後の総裁なんて誰もやりたくないから人選でもめる中、国が一生懸命探して任命した人材だったわけです。
昭和30年代の前半、国鉄には東海道線増強調査会や幹線調査室が発足し、東海道線の輸送力をどう高めるかが議論されました。私はその頃、本社の秘書課にいたのですが、廊下で十河さんや国鉄技師長の島秀雄さんといった重役たちをあまりにもよく見かけたんです。
特に、後に技術者のプロジェクトリーダーとして新幹線の安全性に大きく貢献した島さんは、走るように部屋を行き来していた。これは相当、話が動いているんだなと感じました。島さんは中折れ帽をかぶっていらした。偉い人とじかに話す立場にない若い私は、廊下で会うとお辞儀するんです。すると、きちっと帽子を取ってくださる。そんな英国紳士のような優雅な方が走り回るほどの姿を見かけたわけです。新幹線の計画が最終的に決まる直前ぐらいの、大変な時期の一端を垣間見たのでしょう。