何が大変だったかと言えば、十河さんが増強計画案の根本をひっくり返したんです。当時の議論は、おおかた、すでにある在来線の線路と同様の狭軌(幅の狭い線路、1067ミリ)を、東海道線の横に増やして敷設する(複々線)方向でまとまりかけていました。
しかし、十河さんは、抜本的な輸送力強化には広軌(幅の広い線路、1435ミリ)による別線(独自の線路)を敷設するしかないと主張したんです。十河さんはかつて満鉄(南満州鉄道株式会社)の理事をしていた。戦争中でも満鉄では広軌で時速120キロ出していたと知っていたんです(一方、東海道線増強調査会ができた時期の特急「つばめ」の最高速度は時速95キロだった)。
十河さんは、
「少なくとも100キロ以上出せないと鉄道とは言えない。スピードアップしやすい広軌による高速鉄道の時代が来ているのに、諸君は何を言っているんだ!」
と持論を展開し、怒鳴りつけたそうです。カミナリ親父と呼ばれていて、怖かったですからね。
ただ、この議論はあくまでも東海道線の輸送力増強のために始まっていました。予算もない中で混雑を少しでも早く緩和するべく、すでにある在来線の線路を生かすべきだとの意見も少なくありませんでした。十河さんは当初、ほとんど四面楚歌(しめんそか)で大変に苦労したようです。結果的には十河さんは頑固で、妥協せず押し通しました。かつては鉄道官僚だったのですが、官僚時代の後輩で大物政治家である佐藤栄作さん(後の首相)のところに行って相談し、かなり政治的にも動いて広軌案を実現させた。それがあって、東京~大阪間を3時間で結ぶ画期的な計画ができたのです。十河さんがいなければ今の新幹線はなかったと言っていいでしょう。
それだけではありません。新幹線が実現したのは、島さんを始めとする国鉄技術者の存在も大きかった。その頃の国鉄鉄道技術研究所(現在の鉄道総合技術研究所)には、軍から復員した日本最高レベルの技術者がそろっていた。零戦などを設計した彼らが、安全面で徹底的に新しい技術を企画し、当時考え得る中では完璧なシステムを作りあげました。それで事故なくやってこられたからこそ、今日に至るまで愛されている新幹線があるのです。
新幹線は、国から東京オリンピックを目指してやれと言われて、何とか間に合わせて昭和39年10月1日に開業しました。間に合ったけれども、オリンピックが始まると、皆テレビの中継を見て外に出てこない。期間中、お客様はむしろ減りました(笑)。乗客が本格的に増えだしたのはオリンピック後ですね。
※週刊朝日 2015年12月11日号より抜粋