現在の長野県上田市を本拠とする戦国武将・真田幸村は父・昌幸、兄・信之とともに乱世を生き抜いた。その真田家を支えた最強家臣団の末裔である小山田家13代・小山田恒雄さん(83)が知られざるエピソードを語った。
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うちの先祖は小山田茂誠(しげのぶ)といいます。私で13代目です。系図も残っています。
真田家と小山田家の関係ができたのは真田昌幸のころ。昌幸に気に入られて「うちの長女を嫁にやる」ということで、茂誠が村松殿と結婚しました。村松殿は、真田信之、幸村の姉にあたります。
もとは小山田家も真田家も、甲斐の武田家の家来でした。小山田家の領地は甲府にあって、川中島の戦いにも、長篠の戦いにも出ているんです。真田家が長野県小県(ちいさがた)郡にたどり着いたとき、茂誠が真田昌幸の家来になりました。ところが昌幸と信之、親子が関ケ原の戦いを前に別れることになってしまった。それから小山田家は、信之のほうと行動を共にしたわけです。
小山田家の2代目・主膳(しゅぜん)は、昌幸と幸村が九度山に流された後に、九度山へ行ったり、大坂へ行ったりと、信之のお使いをしていました。お金やお酒を持っていったりしたんでしょうね。信之自身は(徳川家の養子だった妻の)小松姫がいるから、遠慮してじかに連絡はできないけれども、贈り物はちゃんと届けている。真田家の親子というのは、非常に絆が強かったんです。主膳は、信之の家来として、大坂冬の陣にも夏の陣にも行っています。
うちには昌幸からの手紙も、幸村からの手紙もあります。現物は真田宝物館に預けてあります。幸村の手紙は茂誠と主膳に宛てたもので、「定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候」と書かれています。大坂夏の陣の直前にしたためた、生涯最後の手紙と言われており、意味深長なことが書いてありますよ。この手紙は、文久3(1863)年、「大事なものだからなくしてはいけない」と、版画用の木に彫られています。それはうちに保管してあります。