学校は、まるで戦場だった(※イメージ)
学校は、まるで戦場だった(※イメージ)

 戦時中、国は多産を積極的に奨励。子供たちは空腹に耐えながらも国を信じ続けた。軍のために食料や燃料を集め、家族同然のペットも差し出した。編集部に寄せられた読者の体験談から、もうひとつの戦場で彼らが生きた記録をたどる。

 学校は、まるで戦場だった。昭和18年、富山市の神通中学校1年生だった下村正行さん(85)は、ゆくゆくは陸軍士官学校か海軍兵学校を目指していた。中学では軍事教練と柔道、剣道のほかに銃剣道が正課だった。

「柔道場の隣は武器庫で、扉を開けると38式歩兵銃がズラリと並べられていて、驚いたものです」

 軍人になった卒業生が来校し、「神通中から受験して不合格になった者はひとりもおらん。貴様ら先輩に恥をかかせたら承知せんぞ」とハッパをかけた。

 この年、アッツ島が玉砕し、日本は泥沼の戦争にはまりつつあった。

「この時期から、私が住んでいた地域でも貴金属や宝石、革類の供出が始まりました」(下村さん)

 学校の鉄棒は取り外された。学童の金ボタンや徽章、家庭では真鍮(しんちゅう)の火鉢や金箸、寺の鐘楼、銅像も全て持っていかれた。銅の節約のために昭和15年に発行されたアルミ貨すら回収の対象になった。代用品のさらに代用品である錫(すず)貨や小額紙幣が作られ、<アルミ貨の総動員!!一枚残らず航空決戦へ>といった「隣組緊急回報」が家庭に回覧されるようになった。

 現在の福島県国見町の農村で暮らした高野久吉さん(81)も、つらい少年時代を送ったひとりだ。当時は、繊維すらなく桑の皮で作った服が配給所にあった。数が足りないものだからくじ引きで、その服を当てた。久吉さんが着ていた服はとうにボロボロだったが、それでも桑の服は硬くゴワゴワして、着られたものではない。袖は通さなかった。

 供出したのはモノだけではなかった。

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