歌手・俳優の美輪明宏さん(80)は、連載「戦後70年とわたし」の中で、終戦後に出会った文化人との思い出を語ってくれた。
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私が10歳のときに、終戦を迎えました。東京の国立(くにたち)音大付属高校に進学したものの、経済的な事情で中退。銀座の喫茶店や進駐軍のキャンプでアルバイトをするようになった。そのころは、新宿駅の構内にも焼け出された人や戦災孤児が住んでいました。駅の西口に手配師が来て、サックス吹ける人? ピアノ弾ける人? 歌える人?と、人を集める。幸い、私は子どものころに教会で、英語を教わっていた。「英語の歌ができます」と、手をあげて、踊り子さんやバンドと一緒に、即席チームのできあがり。トラックやバスで立川や座間のキャンプに運ばれた。そして、この場所が私の人生を変えることになったのです。
立川のキャンプで舞台の出番を待っていると、米国人の支配人が来て、「You stop」と。なぜかと聞くと、衣装がプアだ。ショーは見せるものだと言うんです。確かに、エナメルの靴も衣装もボロボロ。日本が貧しい時代ですから、新しい衣装など買えません。悔しいですよ。でもその経験が、のちのビジュアル系につながりました。
「オズの魔法使」で有名なジュディ・ガーランドがお忍びで慰問に来たことがありました。私のファンの米軍将校と一緒に、将校クラブに行くと、ジュディは歌って踊って冗談を言って、客席中が盛り上がっている。彼女のステージを見て初めて、「ショー」の意味がわかった。私は銀座のシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」で、それをやり始めたんです。