一人の女性がおもむろに取り出した『尋常小学読本』。周りにいる数人の高齢者に見せながら、
「こんな教科書、お使いになっていましたか?」
こうやさしい口調で尋ねると、教科書を手にとった男性は、
「懐かしいねぇ」
と一言。
「昔はね、親には孝行、国には忠義を誓ってね……」
と語り始める男性も。小学校時代の担任の名前や厳しかった指導のエピソードも飛び出し、話はつきない――。
これは、ある施設で行われた「回想法」の一コマだ。
回想法とは、過去の記憶を手がかりに、その人の人生を語ることによって、精神の安定化を図る心理療法の一つ。1960年代にアメリカの老年精神科医が、高齢者のうつ病治療として始めた。認知症に対する非薬物療法として日本で広まったのは、90年代だと言われている。
都内の施設や病院などで回想法を実施する、慶成会老年学研究所(東京都港区)の宮本典子さん(臨床心理士)は、こう説明する。
「認知症は、最近の記憶が失われても、古い記憶は比較的最後まで保たれます。この認知症の記憶の障害のあり方を生かした心理療法が回想法なのです」
参加者は、自分の人生に共感する聞き手に対して、これまで培ってきた知恵や経験を語る。回想することで、自分の人生の価値を再発見したり、当時の記憶がよみがえって情動が活性化したりする。これが孤独感や不安感を減少させたり、意欲を向上させたりする。
そのため、「認知症と診断されて不安の中にいる高齢者の心のケアとして役立ち、記憶の障害が進行した方のコミュニケーションを助ける手段にもなる」(宮本さん)という。
回想法の有効性を科学的に検証した国立長寿医療研究センターの遠藤英俊医師(長寿医療研修センター長)は、「話す、聞く、コミュニケーションをとるという行為が、記憶を維持したり、進行を遅らせたりすることにつながる」と話す。
「当時の経験を人に伝えるだけでなく、人の経験を聞いて刺激を受けたりもする。そういうコミュニケーションをとることで、脳の血液循環量が増え、活性化するのです」(遠藤医師)
遠藤医師が北名古屋市で回想法スクール(月1~2回を計8回)を開催したときの参加者の認知機能の変化を示した。参加者の認知機能を参加前後と、終了して2年後の計3回にわたって評価し、スクールに参加していない人と比較した。
すると、回想法実施群(66~84歳の13人)は、非実施群(65~86歳の11人)に比べて、認知機能が改善していた。
また、対象者は認知症ではない一般の高齢者だが、回想法は2年後まで効果が持続する、あるいは認知機能が向上する可能性があることもわかった。
「活動的な精神状態を取り戻したことで、その後の人生にも影響を及ぼしたのではないかと推測されます。回想法は有酸素運動と同じくらい認知症予防や症状の進行抑制に効果があると思っています」(同)
宮本さんは、「回想法で認知症を治すことはできない」としつつも、記憶力を測定できるテスト、MMSE(認知機能の評価法の一つ)の点数が、参加前より参加後のほうが上がるケースがあるという。
※ 週刊朝日 2014年10月31日号より抜粋