大学受験人口がピークだった1992年度には約50万人の受験生が浪人した。少子化の現在、現役志向が強く、浪人生の肩身は狭い。でも、大学受験に失敗したからこそ、その後の人生につながることもある。サイエンスプロデューサーとして活躍する米村でんじろう氏も国立大学を目指し4年間浪人をした。その時の思い出をこう語る。
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小学生のときから理科が好きで、理科の授業は楽しかった。中学では化学部に入り、花火の分解などを一人で黙々とやっていました。高校では勉強についていけず赤点を取っていましたが、それでも理科の実験授業は好きだった。大学で理科を学びたいと思いました。
高3のとき父が事故死したため、授業料が安い国立大学を目指しました。でも、中学レベルの英数の基礎学力が身についていなかった私は、勉強のやり方がわからず成績が上がらない。担任の先生に「国立大学の現役合格は無理だ」と言われていたし、自分でも受かる可能性はないと思っていたから、落ちたときにショックはまったくなかった。
予備校は遠いし、授業料が高い。浪人1年目、自宅で勉強をしました。参考書、受験雑誌、ラジオ講座などで独学しましたが、英語、数学、物理などは基礎ができていないため理解できない。この年も受験は失敗でした。
2年目も自宅で勉強しました。ひきこもって暗くなっていく私を母親が見かねて、「工場で働いてみたらどうか」と勧めました。6月から8月までの3カ月、40~50代のおじさんたちと一緒に働いたのはいい経験になりました。おじさんたちと話していると、なんとなく大人になった気がして、ひきこもりの殻を破ることができた。9月からは電車で2時間かけて千葉市の予備校に通いましたが、講義についていけず12月ぐらいにやめました。
浪人3年目、いよいよヤバいと感じました。母親に頼るのがつらくなり、住み込みの新聞奨学生に応募しましたが、暗い顔をしていたためか断られました。牛乳配達のアルバイトをしながら、3年目の宅浪。高3のときにはちんぷんかんぷんだった英語がだんだんわかるようになり、精神的に落ち着いてきました。4回目のチャレンジで、ついに国立大学に合格。時間はかかったけれど、諦めずにコツコツと頑張って合格できたことは自信につながりました。
40歳のとき、11年間勤めた都立高校の教師をやめて、サイエンスプロデューサーとして独立しました。安定した職業を捨て、思い切ったことができたのは、浪人時代の経験から「コツコツ頑張っていればなんとかなる」と思えたからです。
浪人時代につらい気持ちを経験しているから、落ちこぼれの子どもの気持ちもよくわかります。サイエンスショーの最後に、「おもしろかったですか?」と尋ね、子どもたちから「おもしろかった!」と答えが返ってくるときにやりがいを感じます。時間はかかっても志望校合格という目標を達成すると、その後の人生で大きな自信になると思います。
※週刊朝日 2014年8月8日号より抜粋