織田家第16代当主の織田裕美子氏は、茶の道にも通じていたという先祖の織田信長の弟・有楽斎についてこう明かす。

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 織田信長の弟・有楽斎(うらくさい)(長益・ながます)が、私の先祖にあたります。今の東京都千代田区に座敷があったので、有楽斎にちなんで有楽町と名づけられたといわれています。信長が亡くなったあとは秀吉に仕え、関ケ原の戦いでは家康につきました。大坂冬の陣では豊臣秀頼を支えます。家康との調停をはかりますがうまくいかず、豊臣氏が滅ぶ大坂夏の陣の前に大坂城を出てしまいます。淀君は自分のめいですから、いろいろと複雑な思いがあったことでしょう。

 有楽斎が隠居するときに、領地3万2千石のうち1万石を四男である長政に分け与えました。これが芝村藩で、今の奈良県桜井市にありました。有楽斎が藩祖で長政が初代藩主、私で16代目になります。

 有楽斎の子孫としては、ほかに柳本(やなぎもと)藩(奈良県天理市)、信長の次男・信雄(のぶかつ)の子孫では天童藩(山形県天童市)と柏原(かしわばら)藩(兵庫県丹波市)、ぜんぶで4家が藩主として明治維新まで残りました。織田家は本能寺の変で滅んだと思われていますが、そうではないんですよ(笑)。

 
 有楽斎は、当代一流の茶人でもありました。利休に茶の湯を学んで、独自の茶を展開して有楽流を開いた、とよく書かれていますけど、これには説明がいるかもしれません。

 有楽流といっても、もともとは侍だけが行う作法のようなお茶。お家流ということで代々伝わっていたもので、幕末まで市井(しせい)には出していなかったらしいです。

 家元制度がなく、広めようという発想もなかった。でも、織田家のお家流を覚えて、よそで教える人がわずかながら増えていきました。父・長繁のときに、そういう人たちから宗家としてちゃんと流派を名乗ってほしい、と言われまして。ならば、この機会に古い書物にみられる「有楽流」という言葉を使って、現代の有楽流として伝えよう、ということになりました。

 有楽流では、有楽斎を初代として父が15代目。父が亡くなったあと、茶の宗家は母が継ぎました。ちょっとややこしいのですが、私は、芝村・織田家の当主としては16代目ですが、母が亡きあとに継いだ有楽流の宗家としてだと17代目になります。「宗裕」という茶名をもっています。

 
 うちには「茶道正伝(しょうでん)集」という、有楽斎の考え方などが書かれた10冊の古文書があります。これを正しく解釈してきちんと伝えるのが織田家のやり方です。

 利休の茶とのちがいですか? 利休は草庵の茶、有楽斎は書院の茶。言い換えれば、広間の茶でしょうか。広い部屋で台子(だいす)という大きな棚を使うのを基本にしています。帛紗(ふくさ)という、茶道具を拭い清める絹の布も、他の流派では帯の左側にはさむことが多いようですが、武家だから右側。左側には刀が入りますからね。

 この帛紗には桐の紋がついているでしょう。織田家にはいくつもの紋がありますが、桐はお茶のときに使います。アゲハチョウの紋もあって、これは当主だけが身につけることができます。私は先代の一人娘で当主です。でも、これまで当主といえば、ずっと男性でしたから、アゲハチョウを使うのは、やはりおそれ多くて気後れしています。

(本誌・横山 健)

週刊朝日  2014年6月20日号