iPS細胞開発で一躍著名人となった山中伸弥・京都大学教授。しかし幼い頃から目立った存在だったというわけではないようだ。転機は小学校6年生の時に訪れたという。

「伸ちゃんは、園が終わった後も一人で園まで戻って、夕方6時くらいまで園庭でタイヤを転がしたり、ブランコやシーソーや鉄棒で、創意工夫を凝らして自由に遊んでいた。ズバ抜けたところはまったくなかったけれど、目のクリクリした明るくかわいらしい坊ちゃんでしたよ」

 東大阪市東山町の若宮保育園で、保育士として小学校入学前の山中教授に接した竹本美智恵さん(67)は振り返る。田んぼや畑が広がるのどかな田舎町で、山中さんの父は、ミシン部品工場を経営。最盛期には30人ほどの従業員や、専属の下請け工場を抱える大きな会社だった。両親ともに高学歴で、地元では一目置かれる家庭だったようだが、幼少期の山中さんに目立った「神童伝説」はなかった。

「ヤマナカッチ」というあだ名で呼ばれていた山中さんは、小5までは目立たない存在だったと、当時の同級生の酒井孝江さんは言う。

「それが小6になってから、ぐわーっと成績が伸びはりまして、算数のテストなんか100点ばかりに。クラスで1、2位を争う成績で、『山中の言うことは、聞こうか』という雰囲気がクラス中に広がった」

 秘密は中学受験にあった。6年生になって、山中さんは電車に乗って、近鉄奈良駅の近くにあった塾に通い始めていた。

「難関校の灘、東大寺学園、大阪教育大学附属天王寺中学校などを目指す小6生専用の個人塾で、教室では竹刀を持った先生が机をバンッとたたくような、厳しいスパルタ式の塾でした。授業は週に4日、夜遅くまであり、終電に間に合うように走って帰ったこともあります」

 クラスの女子には人気があった。友達に代わってバレンタインチョコと手紙を渡したという同級生の堀田文子さんは言う。

「なんだか恥ずかしかったみたいで、手紙を読んだのか読まなかったのか言わないんですよ。シャイで謙虚な人だった」

AERA 2012年10月22日号