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「『撮っておけば後で何とかなる』では作品のレベルはどんどん下がる」。インスタグラムやフォトコンテストで増えている、写真の合成と加工について大特集を展開する現在発売中の『アサヒカメラ』3月号で、人気写真家の高砂淳二さんが思いを明かした。「合成はしません。何か大切なエッセンスが失われる気がしますから」と言う高砂さんの意見を参考に、自分自身の写真の哲学を考えるきっかけとしてはどうだろうか。
【写真の合成と加工の正義を熱く語ってくれた人気写真家はこの人】
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フィルムのときからそうですけど、そもそも見た目どおりに写すのが写真じゃないんですね。ベルビアだったら見た目より派手に写る、コダクロームで撮れば渋さが強調される、とかね。モノクロだと焼き込んだり、いろいろなことをやっていた。
基本、写真というのはそういうことを含んでいる。だから急にいま、デジタルになって、何もさわっちゃいけない、というような世界ではないと思うんです。
ぼくは生きものも風景も、イメージっぽいのも撮っている。イメージっぽい写真ではフィルターをかけることがけっこうありましたね。どんなふうに被写体を見て、どういうふうに撮る、という世界。
でも、それを一生懸命にやっていたのは若いとき。やはり、若いときって、いろいろやってみるじゃないですか。自分がどこまですごい世界をつくれるか、みたいなこともあって、いつもフィルターを何十枚も持って行って3枚、4枚と、いろいろな色を重ねて撮る、ということをやっていました。
■見つめている本質をどう写し出すか
例えば、この花の、この感じを見てほしい、というときには構図とか、光の加減とか、いろいろなものを使って、「この感じ」をなるべく出すわけですが、フィルムの特性とか、いろいろなことからして、このよさは出ないよね、というときはフィルターをかけて補正する。ストロボを被写体にバーンと当てて、周囲の明るさを落として強調するとかね。そういう写真の技法って、いろいろとあるわけです。振り返ってみると、いろいろな試行錯誤をしてきたなあ、と思いますね。
いまでもいろいろな技法を使いますけれど、そういうことは年をとるにつれて少しずつ減ってきた。もっと真に迫ろうという意識がだんだん増してきた。
自分は被写体の何に感動しているんだろう、とか。見つめている本質をどうすれば出せるのか、ということを考えると、色が邪魔になってくる部分もあるんです。