週刊朝日ムック『歴史道Vol.8』では、家紋と名字を大特集。戦国武将にとって、家紋は、家としてのプライドや格を示す最大のシンボルの一つだった。先祖や自分が、天皇や将軍、主君から認められ、褒賞を受けた証しであり、理念を象徴させたり、呪力を込めたりすることもできた。家紋には武将の性格が表れている。特集では、豊臣秀吉、伊達政宗、武田信玄、上杉謙信、毛利元就、石田三成、今川義元、北条氏康、島津義久、真田幸村の10人を取り上げたが、ここでは豊臣秀吉と毛利元就について触れてみよう。
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豊臣秀吉
■最初の家紋は、妻の実家の家紋「沢瀉」から取られた
豊臣秀吉は武士の家系ではなく、その出自は農民に過ぎなかった。したがって、ほかの武将と違って、家紋との関わり方が、極めて特異である。
秀吉は、仕官した織田信長にその才能を見出され、家臣として重用された。信長の死後は天下人に名乗りを上げ、関白にまで上り詰める。その間、朝廷とも友好的な関係を構築した。秀吉の家紋についても、さまざまなものが知られている。以下、確認することにしよう。
そもそも秀吉は武士身分ではなかったので、家紋を使っていなかった。秀吉の最初の家紋だったと考えられるのは、「沢瀉(おもだか)」である。これは、まだ秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代に使われていたと推測される。
「沢瀉」とは、水草の一種である。「沢瀉の鎧(よろい)」という言葉があるほどで、「勝ち草」「勝軍草」などとも称される。その葉の形が矢じりに酷似していたので、多くの武将に好まれた。非常に縁起が良かったのである。代表例としては、梁田(やなだ)氏の「三つ立ち沢瀉」が『見聞諸家紋』(武家の家紋集)に取り上げられている。
秀吉が「沢瀉」を使ったのには、いくつかの理由が考えられる。秀吉の妻・おねの実家の杉原家の家紋は、「立ち沢瀉」だった。その影響は、大きかったと考えられる。武士としての第一歩を踏み出した秀吉は、とりあえず妻の実家の家紋を用いたのだろう。
その後、秀吉は「沢瀉」の家紋を、養子に迎えた秀次、子飼いの武将の福島正則らに与えた。秀吉は自らの家紋を与えることによって、配下の武将を統制しようと考えたのだろう。この方針は、以後も堅持された。秀吉は信長のもとで大いに軍功を挙げ、やがて木下姓から羽柴(はしば)姓を名乗るようになった。
出世街道を驀進する秀吉は、信長から「五三桐(ごさんのきり)」の家紋を与えられている。五三とは、「五三桐」の家紋の上部の花の数が左から三、五、三に並んでいるからである。桐紋は菊紋と並んで、朝廷が使用する高貴な家紋である。普通ならば、秀吉のような者が使えるものではなかった。信長はどのような経緯によって、「五三桐」の家紋を許されたのだろうか。
かつて信長は、室町幕府の十五代将軍・足利義昭を推戴して京都に入り、幕府の再興を手助けした。その際、義昭は恩賞として、信長に「五三桐」の家紋を与えたといわれている。そもそも「五三桐」の家紋は、後醍醐(ごだいご)天皇が鎌倉幕府を打倒した恩賞として、一連の戦いに貢献した足利尊氏に与えたものだった。