信長は秀吉の貢献を大いに評価し、「五三桐」の家紋を与えたということになろう。なお、信長は秀吉に対して、「木瓜桐文緋羅紗陣羽織(もっこうきりもんひらしゃじんばおり)」を与えたことで知られている。「木瓜桐文緋羅紗陣羽織」の背中部分には、信長の家紋「木瓜紋」が描かれており、裾には秀吉の桐紋があしらわれている。秀吉が信長を慕っていた証左となろう。

 信長の死後、秀吉は柴田勝家らライバルを打ち倒し、さらに天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで勝利し、徳川家康ら諸大名を臣従させることに成功した。そして、五摂家が関白の地位を誰が継承するかで揉めているときに、自らが関白に就任することで、後継問題を解決した。こうして秀吉は、文字通り天下人になったのである。

 天正十三年(1585)に秀吉が関白に就任すると、後陽成(ごようぜい)天皇は豊臣姓とともに「五七桐」の家紋を与えた。これは、最高の栄誉だった。五七とは、「五七桐」の家紋の上部の花の数が左から五、七、五に並んでいるからである。これにより、秀吉の権威は大いに高まったが、決して満足しなかった。秀吉は新たに「太閤桐(たいこうきり)」なる家紋を作り上げたのである。

 秀吉はなぜ、新たに「太閤桐」なる家紋を作り上げたのだろうか。ここまで論じてきたとおり、天皇や主君たる戦国大名が自らの家紋を配下の者に与えることは、決して珍しいことではなかった。秀吉も「沢瀉」の家紋を与えていた。しかし、「五三桐」の家紋でも、「五七桐」の家紋でも、そのまま与えてしまうと、軽々しくなってしまう。多くの人がそれらの家紋を使えば、相対的に価値が下がってしまうのである。秀吉は、そのことを恐れた。
 
 そこで、秀吉は桐という最高の家紋を生かしながら、新たにデザイン化したものを作り上げ、配下の武将たちに与えることにした。これならば、軽々しくなるという問題が解消される。秀吉は「太閤桐」を新たに作成することによって、自身が使用している「五三桐」や「五七桐」の家紋の価値の相対的な低下を防ごうとしたのである。
 
 ここで一つ、桐紋にまつわるエピソードを挙げておこう。

 周知のとおり、桐紋は多くの大名に与えられたので、かなり価値が下がっていた。場合によっては、与えられていないにもかかわらず、無断で桐紋を使用する者までが現れた。天正十九年(1591)六月七日、秀吉は桐紋や菊紋を無断で使うことを禁じる旨を奈良中に触れた。この事実は、興福寺の僧侶・多聞院英俊が『多聞院日記』に書きのこしている。秀吉がかなり神経質になっていた様子がうかがえる。
 
 秀吉は、桐紋を非常に好んでいた。京都市伏見区にある醍醐寺の三宝院の門扉には、秀吉の面影がしっかりと残っている。門扉の中央二枚には秀吉の「五七桐」があり、左右には菊の紋が施こされている。この門は、「勅使門」と称されており、朝廷から派遣された使者のみが通る門だったのである。
 
 近年でも秀吉が菊の紋を使った例がある。秀吉は大阪市天王寺区にある四天王寺に対して、仏像などを安置する厨子(ずし)を寄進したことが明らかになった。その厨子には「文禄七年」との墨書があるだけでなく、金箔もふんだんに使われ、豊臣家の家紋である桐花が描かれていた。

 なお、「文禄七年」は本来は存在しない年号であるが(本来は慶長三年<1598>)、秀吉の治世が続いていたので、あえて使われていたと考えられている。この年の八月に秀吉は亡くなった。

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毛利元就の家紋のひとつ「長門三つ星」のルーツは史実ではない?