■「長門三つ星」は、元就の祖である大江氏に由来する
もともと毛利元就は安芸の一国人であったが、やがて周囲に支配圏を広げ、中国方面に覇(は)を唱えた。毛利氏もほかの戦国大名と同様に、いくつかの家紋を使い分けているが、元就の時代が一つの契機になっている。
「十六葉菊」は、元就が正親町天皇から下賜されたものである。当時、朝廷は財政的に厳しかったが、元就からの献金によって何とか持ち直した。その際、正親町天皇は叙位任官だけにとどまらず、「十六葉菊」の使用を許可したのである。これは、大変名誉なことであったと考えられる。「五七桐」は室町幕府十五代将軍の足利義昭が用いていたもので、元就も使用を許可された。
当時、義昭は室町幕府の再興を悲願としており、各地の大名に協力を呼び掛けていた。元就もその一人だったのである。「長門三つ星」は、元就の祖である大江氏がもともと用いていた家紋である。図案は、源頼朝の重臣だった大江広元が考案したと考えられている。「一」の文字は、数の根元であり、極数の九に相対するものである。「三つ星」は、「三武・将軍星」を意味し、それを組み合わせたのである。
「長門三つ星」は、毛利氏だけでなく、その一族も使用した。そして、この家紋は、有名なエピソードとつなげて解釈がなされていた。元就は亡くなる寸前、隆元(たかもと)、隆景(たかかげ)、元春(もとはる)の三人の子を枕元に呼び寄せ、それぞれに一本の矢を折らせた。むろん、矢は容易に折れた。しかし、三本の矢を束ねて折らせたが、それはできなかった。元就は三本の矢を兄弟三人になぞらえ、互いが協力するように遺言した。
この逸話が「長門三つ星」のルーツと言われているが、それは誤りである。そもそも元就が亡くなる時点で、長兄の隆元は死んでいた。つまり、三本の矢の逸話そのものが史実ではないと否定されているのである。先述のように、「長門三つ星」はすでに平安末期には誕生していたのである。なお、「長門沢瀉」は毛利家の裏家紋として使用されていた。(文/渡邊大門)