残るレースは日本GPを含めて2戦。セナが逆転でチャンピオンになるためには、日本GPでは優勝しかなかった。予選でポールポジションを獲得したものの、レースはスタートからプロストがリードする展開となる。なんとかこのレースを逆転で勝利し、タイトル争いを最終戦に持ち越したいセナは、レース後半、反撃に出る。迎えた47周目、セナはシケインの入口でプロストのインに飛び込むが、プロストは譲らず、接触。プロストはその場でマシンを降りてリタイアするが、優勝しかないセナはマーシャルにマシンを押してもらいエンジンを再始動させ、レースに復帰。その後、傷ついたフロントウイングを交換して、一旦2番手に交代するが、鬼神の走りで逆転。トップでチェッカーフラッグを受けた。しかし、コースに復帰する際、シケインを通過していなかったという理由で、セナは失格。プロストのチャンピオンが決定した。

「接触してフロントウイングを交換するためにピットインした後も、優勝を目指してレースをあきらめなかった鈴鹿でのあのアイルトンの走りは、いまでも忘れることができない」と語るハミルトンにとって、1989年の日本GPはベストレースだという。それは、セナとプロストの戦いが白熱したバトルを演じていたことだけが理由ではなかった。

 ブラジルから渡欧してF1を戦っていたセナに対して、プロストはグランプリ発祥の地、フランス出身。当時のFIA(国際自動車連盟)会長であるジャン=マリー・バレストルは、プロストの母国フランス人だった。こうしたことから、2人の戦いは単なるレースという枠を超え、ヨーロッパ対非ヨーロッパという人種的な戦いとしてとらえられたり、あるいは旧体制と新体制という世代間の戦いにも発展し、レース・ファン以外の人々をも巻き込んで社会的にも注目された。

 そういった意味で、「セナvsプロスト」というライバル関係は、ほかのF1でのライバル関係とは異なる史上稀なる独特の存在として、いまもなお語り継がれている。(文・尾張正博)