F1史上に残るライバル関係だったセナ(右)とプロスト(左) (c)朝日新聞社
F1史上に残るライバル関係だったセナ(右)とプロスト(左) (c)朝日新聞社
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 名ドライバーには、雌雄を決して戦った名ライバルが必ずいる。そして、ライバル同士で演じられたバトルには、のちに語り継がれるような名勝負となるレースが存在する。

 現在、F1で現役最多となる5度のチャンピオンに輝き、通算79勝を挙げているルイス・ハミルトンが、少年時代に憧れていたドライバーが「音速の貴公子」と呼ばれた天才レーサー、アイルトン・セナだ。少年時代、学校から帰ってきたハミルトンが、テレビに釘付けになって見ていたのが、このセナとアラン・プロストの戦いだった。

 セナとプロストの関係は、まずチームメートとして始まった。プロストが所属するマクラーレンにセナが移籍してきた1988年のことだ。すでにマクラーレンで2度タイトルを獲得していたプロストに対して、無冠だったセナの関係は、当初はライバルというよりは先輩・後輩に近い形でスタートしていた。

 2人の関係がライバルへと発展するきっかけとなったのは、ホンダが供給した当時最強と言われたエンジンの存在が大きく関係していた。1988年のマクラーレン・ホンダは、16戦15勝というF1の黎明期を除けば、F1史上最高勝率でシーズンを席巻。タイトル争いはマクラーレンの2人のドライバー同士の戦いとなり、セナとプロストの関係は「チームメート」から「ライバル」へと変化するのは、自明の理だった。

 最初の戦いを制したのは、セナだった。翌1989年も2人によるタイトル争いが続くと、2人の関係はライバルという枠を超え、骨肉の戦いを演じるようになる。

 発端は、第2戦サンマリノGPだった。この年もライバルより強力なマシンを有していた2人は、レース前にある約束を交わした。それは「良いスタートを決めた方が最初のコーナーの優先権を得る」というものだった。つまり、スタート直後の1コーナーで同士討ちだけは避けようというチームメート同士の紳士協定である。

 ところが、そのレースでセナはスタートで出遅れ、第1コーナーでプロストの後塵を拝するも、最初のブレーキングを行う事実上の最初のコーナーとなるトサ・コーナーでプロストのインを差し、オーバーテイクしてしまう。優勝したセナに対して、プロストはレース後のインタビューをボイコット。フランスのメディアを通して、セナの紳士協定違反を主張した。この一件を境に2人の関係は悪化の一途を辿っていき、タイトル争いはプロストが王手をかけて、終盤の第15戦日本GPを迎える。

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史上稀なる独特のライバル関係