三成が秀吉に仕えるようになったのは天正二年(1574)、あるいは天正五年(1577)とされる。天正二年に仕官したとしたら十五歳のときで、場所は長浜となる。天正五年なら十八歳で仕官したことになり、そのころ秀吉は信長から播磨平定を命じられて姫路にいたから、姫路でのこととなる。近江出身の三成をわざわざ姫路で登用するとも考えにくいから、秀吉に仕官をしたのは長浜でのことだったのだろう。
もっとも、当初は秀吉の身の回りの世話をしていただけかもしれない。播磨平定のころになると、三成は秀吉の奏者として抜擢されている。奏者とは、秀吉と家臣とを取り次ぐ立場の者をさす。三成は、秀吉の下達を家臣らに伝え、家臣らの上申を秀吉に伝えた。こうして、秀吉の側近として活躍するようになっている。
天正十年(1582)の本能寺の変で織田信長が討たれたあと、秀吉は織田家中の実権をめぐって柴田勝家と争い、天正十一年(1583)、賤ヶ岳の戦いで戦うことになった。このとき秀吉は、弟の秀長を賤ヶ岳山麓の木之本に残すと、自らは岐阜城の織田信孝を牽制するため大垣にいた。
4月20日、秀吉方の手薄をついて柴田軍が攻撃してくると、秀吉は急遽、本隊を木之本に戻す。大垣から木之本まではおよそ52キロメートルである。秀吉は午後4時ころ大垣を出立すると午後9時には木之本に着いたという。このとき、軍勢の移動のため握り飯と松明(たいまつ)を用意したのが三成であった。
この賤ヶ岳での戦いで、三成は兵站(へいたん)を担っていただけではない。実際に、加藤清正や福島正則らとともに、秀吉の先鋒として戦っている。ただし、加藤清正や福島正則が、後世「賤ヶ岳の七本槍」と賞される働きをしたのに対し、三成の活躍は折衝など裏方中心だった。そうしたことから、以降、前線で戦うことはなくなったのかもしれない。
このあと、三成は軍事よりも、民事を担う吏僚派として重用されていくようになる。(監修・文/小和田泰経)