太閤豊臣秀吉の死と台頭する徳川家康。豊臣家の天下に暗雲が立ち込めるなか、敢然と立ちあがった漢(おとこ)、それが石田三成であった。「へいくわい(横柄)」とそしられながらも、「義」を貫き殉じた石田三成とは、いかなる武将だったのか。その生涯と事跡を大特集した週刊朝日ムック『歴史道Vol.4』が送る短期連載。第一回目では、若き俊才・光成が頭角を現すまでの軌跡を振り返る。
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■賤ケ岳の戦いで兵站を担当し、有能な官僚の片鱗を見せる
三成は、永禄三年(1560)、近江国坂田郡石田村で生まれたとされる。石田村は、もともとは石田郷と呼ばれており、郷名を苗字としていることからして、石田氏は土豪であったとみられる。父は石田正継、母は近江浅井氏の家臣土田氏とされ、幼い頃は佐吉と呼ばれていた。
父正継は戦国大名浅井氏に従っていたとみられるが、浅井氏は3代目の長政のとき、義兄にあたる織田信長から離反して朝倉義景につく。その後、長政が元亀元年(1570)の姉川の戦いで信長に敗れると、天正元年(1573)には居城の小谷城が落とされ、浅井氏は滅亡した。
浅井氏の遺領は、浅井氏との戦いに功のあった羽柴秀吉に与えられ、当初は小谷城を居城としていた秀吉も、ほどなく、長浜城を築いて居城を移す。石田氏が秀吉に従うようになったのも、このころのことと考えられている。
三成がどのような経緯で秀吉に仕えるようになったのかはわからない。ただ、江戸時代に書かれた『武将感状記』などでは、寺で修行していた三成が、鷹狩で立ち寄った秀吉に茶を献じたとき、その心配りを秀吉が気に入ったためとする。
すなわち、三成は、最初の一杯はぬるめの茶を茶碗の7、8分まで注ぎ、おかわりしたときには少し熱めの茶を半分ほど入れ、さらにおかわりしたときには小さな茶碗に熱い茶を入れたという。もちろん、この話が史実かどうかははっきりしないが、後世に創作されたものとして無視してよいわけでもない。
秀吉が鷹狩をしていたのは、荒唐無稽な話ではなかった。譜代の家臣のいない秀吉は、浅井氏の遺臣を積極的に取り立てようとしていたからである。鷹狩と称して領内をまわり、使えそうな人材を探していたのではあるまいか。そのお眼鏡にかなった一人が三成であっても、なんらおかしくはない。