とはいえ、このとき選ばれたのは宇徳敬子で、落ちた彼女には別のソロプロジェクトが用意されることに。それがZARDだった。思えばここから「最強の二番手」としての彼女の歌手人生が幕を開ける。表舞台で派手に歌い踊るのではなく、時代にひっそりと寄り添いながらその伴奏をするようなスタンス。そこに彼女は、見事にハマっていくわけだ。
そんな方向づけについて、長戸自身がこんな発言をしている。2年前にAERA dot.で連載された「永遠の歌姫 ZARDの真実」(神舘和典)からの引用だ。
「プロデューサーとして坂井さんに求めたのは“平成に生きる昭和の女”です。昭和の中盤から後半にかけて、歌謡曲やJポップで歌われ続けた、愛する男性の夢のためには身を引く女性です。(略)髪型も変えず、そのコンセプトを最後まで変えなかったことが、数多くの大ヒットを生み続けたと感じています」
まるで、テレサ・テンの歌のヒロインみたいだが、じつはこのオーディションで彼女は「つぐない」を披露していた。また、カラオケでは同じくテレサの「別れの予感」もよく歌っていたという。そして、彼女の前に「最強の二番手」だったのがまさにこの「アジアの歌姫」なのだ。
■「露出」を武器にしていた森高千里
テレサは昭和59年から3年連続で日本有線大賞を受賞。日本レコード大賞ではなく「有線」だったあたりが「二番手」たるゆえんで、当時、歌謡界の中心には松田聖子や中森明菜がいた。その影に隠れながらも、確実に支持を集めていたわけだ。そういうスタンスに、ブレイク後の坂井泉水が重なるのである。
というのも、彼女が世に出て行こうとしたとき、Jポップシーンではひとりの美人シンガーが脚光を浴びていた。森高千里だ。自ら手がけた等身大の詞を澄み切ったボーカルで歌うところは似ているが、こちらはミニスカ姿で歌番組に出たりライブをやったりという「露出」も武器にしていた。その露出を極力避けることで、坂井は差別化に成功する。本人があがり症で体調不安も抱えていたという事情もあるようだが、意図的な戦略でもあっただろう。