理由を知りたいのではないのだとしたら、何なのでしょう?

 私がよく話す例はこうです。いたずらをした小学生に先生が、「何でこんないたずらをしたんだ!」と叱っている場面を思い浮かべてください。その子が「人が困っているのを見るのが楽しいからやりました」と答えたら、「よし、よく分かった。先生が聞きたいことは聞けたから帰ってよし」となるでしょうか? ここでの正解は、黙ってうつむいて

「ごめんなさい。もう二度としません」

 と言うことだと思われます。つまりこの「なぜ」は質問しているのではなくて、「お前がやったことは悪いことだ、反省しろ」という意味です。それが本当に言いたいことなのだとしたら、はっきりそう言ってくれたら、伝わるのですが、人はよくこういう混乱した言い方をします。

 こうした言い方をされると、人は表面的な言葉の意味に流されやすくなり、なぜと聞かれると、理由を言いたくなったり、言わなければいけないような気分に陥ります。

 そして厄介なことに、人はどんな時でも理由を聞かれると、(小学生の時から鍛えられていますから)ほどんどの場合、なんであれ理由を言うことができます。人は自分の心の動きをそんなに明確にわかっていないことがほとんどなのに、「わからない」とは言わずに、頭で考えたもっともらしい理由を言うのです。

 例えば、あなたが今日、昼食にウナギを食べたとして、その本当の理由を言うことができるでしょうか? 「ちょっとばて気味なので、スタミナをつけたかった」というのはもっともな理由に聞こえますし、実際にウナギを選ぶときにそのことが頭にあったかもしれませんが、本当にそれが「理由」と言えるでしょうか? スタミナを回復できるとされる料理は他にもありますし、昼寝カフェで昼寝することや、栄養ドリンクも選択肢になり得ます。ただ、いったんスタミナ説を回答すると、それを前提に(その説を守る方向に)話が進む傾向があります。

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なぜのデメリット「理由が独り歩き」