そんな白鵬が、引退後も相撲協会に残り、弟子の指導だけでなく協会の運営にも携わってくれることに、私は大いに期待したい。なぜなら、大相撲の未来のために「変わる」ことこそが必要だと思うからだ。
大相撲には、神事、武道、スポーツ、見世物など、さまざまな側面があり、それが独特な魅力をかもしだしている。現在の大相撲は、江戸時代の勧進相撲から連なる系譜にある。勧進相撲は「見世物」である。見世物だからこそ、観客の嗜好や時代の流れに応じて、神事としての相撲、武士道としての相撲、スポーツとしての相撲など、さまざまな要素を取り入れながら、現在の大相撲が形作られてきた。「横綱」は江戸時代、興行を盛り上げる手段として、注連縄を腰に巻いた「横綱土俵入り」という神事的なショーの発案をきっかけに生まれた。本場所の成績を○勝○敗と数値化して優勝者を決めるという発想は、近代スポーツという概念が西洋から入ってきた明治時代末期に始まったものだ。ビデオを用いた勝負判定は半世紀近く前、他のスポーツに先駆けて取り入れている。
魅力あふれる大相撲の伝統を「守る」ことは確かに大切だ。しかし、その多面的な魅力は、時期に応じてさまざまな要素を取り入れ、「変わる」ことで育まれたものだ。だからこそ、未来の大相撲を見据えれば、「守る」だけでなく、「変わる」ことが必要だ。とはいえ、現状を「変える」難しさは、組織に属する人ならばだれでも実感することだろう。だからこそ、白鵬のようなビジョンと行動力を持ったカリスマ的な人材はとても貴重だと私は思う。
ただ、どんな方向にでも変わりさえすればいいというわけではない。観客の支持を得られない方向に変われば、大相撲の衰退につながる危険がある。そこで気がかりなのは、白鵬のこれまでの言動の中に賛同しかねるものも多いことだ。勝負判定へのあからさまな不服。勝負がついた後のダメ押し。「ヒジ打ち」のように相手を痛めつける行為など。日馬富士による貴ノ岩への暴行の際、それを「愛のムチ」と語った認識も、批判されてしかるべきだと私は思う。